クジラと宇宙を泳ぐいくつかの冴えたやり方

クジラを飼えたらたぶんたのしい

タイプライターはモルフォ蝶の夢を見るか?

世の中に提唱されるあらゆる論説のひとつに「バタフライ効果」というものがある。

 

バタフライ効果(バタフライこうか、英: butterfly effect)とは、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。カオス理論で扱うカオス運動の予測困難性、初期値鋭敏性を意味する標語的、寓意的な表現である。気象学者のエドワード・ローレンツによる、蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?という問い掛けと、もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、という数値予報の研究から出てきた提言に由来する。 

上記インターネッツにおける善意・お節介・虚言の坩堝ことWikipediaより引用

 

文中の「寓意的な表現」を具体的に言うと、「ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」というものになるらしい。一見テキサスの気候とは無関係そうな、遠く離れたブラジルでのほんの僅かな大気の揺らぎ(=蝶の羽ばたき)が、巡り巡って大きな変化(=竜巻)をもたらすという理論だ。

 望むと望まざるとにかかわらず、僕たちは日々を過ごしていく中で無数の選択を迫られ、自分の意思の有無を別にして時に何気なく、時に熟考してその答えを選び取る。めざましジャンケン、どの手を出すか?点滅する信号、走って渡るか?次の青を待つか?打ち上げ花火、下から見るか?横から(etc

一つ一つの選択は僕たちを異なる未来へ連れていくが、その選択によってもたらされる変化の多くはほとんど誤差レベルと言って差し支えない。例えば今年最後の出勤日、僕はいつもより少し遅く家を出たが、結局いつも乗る電車に間に合うように駅に着き、普段どおりお利口さんに出社した。もし駅に着くのが遅れて一本後の電車に乗ることになっても、始業時間までにはきちんとタイムカードを押せていたはずだ。このように、選択により分岐した未来の多くは最終的にメインストリームとなる未来に収束することとなる。そういう意味では、前述のバタフライ効果は正鵠を射た論説というよりむしろ、愚にもつかない詭弁と言うべきかもしれない。僕が口笛を吹いたとしても冬型の気圧配置には何の影響ももたらさない。そもそも、僕は口笛が吹けない。

 

しかし、我々の人生において「転機」と呼ばれるタイミングは必ずある。ただその多くは転機によってもたらされた変化を体感した時に初めて「あぁ、思えばあれが転機だったのだ」とわかるような代物なのだ。つまりは転機云々も結果論でしかないのだが、今年はその「転機」を色濃く感じる一年だった。

転職することが決まったのだ。毎年のように「転職だー!転職するぞーー!!」と豪語し続けいつしかオオカミ少年よろしくテンショク少年になりかけていたが、ついにである。2月から京都の企業で自社メディアに掲載するコンテンツを制作するライターとして働くことになった(会社そのものはwebコンテンツ制作会社や編プロなどの類ではなく小売業なので説明が難しい…)。自社製品に携わる職人さんや工房を訪ねて取材する機会が多いらしく、学生時代にフリーペーパーを作っていたときの面白さを思い出してソワソワしてしまう。その転職も、僕の人生におけるあらゆる選択の連続の結果である。

 

今まで自分は大きな流れに抗うことなく、その流れに身を任せて生きてきた。人生なんてなるようにしかならないというケ・セラ・セラ精神が染み着きすぎたあまり、選択にほとんど自分の意思がなかったのだ。もちろん、大学や就職といった大きな節目(例外的にわかりやすい転機)においてはある程度自分の志望があってそこに向けて受験勉強や就職活動をしてきたが、自分の能力やキャパシティを早々に見限ってしまい、それ以上の場所を目指して努力することが出来なかった。

転職を本格的に決意したのは、ふとした瞬間だった。イベント終了後の施工業者の撤収作業に立ち会っている時、自分が出来ることって何だ?という疑問が頭を過った。施工業者は看板や装飾の設営ができる。PAは音響のミキシングができる。イベンターはイベントの執り回しが。デザイナーはデザインが。コピーライターは広告コピーが。いろいろなプロフェッショナルの手を借りて案件を取りまとめるのが自分の仕事だが、その自分自身が何かを生み出せるのか?という疑念が湧き上がってきた。湧き上がってきたが、どうしたらいいのかわからなかった。今の仕事も望んで入った業界であるということもあり決して嫌いというわけではなかったのだ。読み書きが好きで、言葉や文章で生活者と企業を繋ぐコミュニケーションの手助けをしたいということを理由に編集者やライターに興味を持ったが、それと自分の文章力とは別問題だということも、僕の頭を悩ませた。

悩ませながら、とりあえず進んでみることにした。

転職サイトには登録せず、自分が行きたいと思う企業をひとつ見つけて応募する。選考途中で落ちたらまた次を探す。決して効率の良いやり方ではないし、自分自身あまり転職活動をしている実感はなかった。そのぶんストレスは少なかったし、何よりケ・セラ・セラ主義者の性分に合っていた。落とされたりもしたが、面接はとてもやりやすかった。大きな流れに運ばれるままに就職活動をしていた新卒の頃に比べて、曲がりなりにも社会人3年目の自分は「はたらく」ことを知っていた。自分の人生の舵を取っている、はじめての感覚だった。

 

自分にとって大きな変化を迎えた一年だったが、ここからがはじまりになるのだろう。小さな転機によってもたらされた転職がこの先のもっと大きな変化の転機になるように、自分の文章がいつかどこかで大きな風を呼ぶように。これからも読み書きを頑張りたい。頑張りたいぞ俺は。僕とか俺とか異なる一人称が混在してるけど大丈夫か。来年もブログも頑張るぞ。

少女は燐寸を擦るために煙草を吸う

幼い頃から転勤族であった自分にとって、故郷と呼べる場所はない。大人になれば散策してその街で生活することの楽しさを享受できるが、二、三年で住む街を味わい尽くすには子供の行動範囲ではあまりに足りない。時間や金銭における自由を手にする大学生活を過ごした京都は、そんな自分にとってはじめて「故郷」と呼べる場所になった。片道一時間半をかけて通うその道のりは、いつの間にか一瞬になった。阪急烏丸駅から地上に出た瞬間の空気が何よりも馴染むようになった。街の変化を歓迎し、惜しむようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ものすごく体裁よく書いてたのに、このテンションのまま続けられなくなってしまった。直情的な気持ちをカッコよくまとめるのって難しいな。何かと言うと、結局未だに京都に住みたいという話です。

京都が好きだ。京都と付き合いたい。初デートはもちろん京都、六曜社でドーナツ食べたい。3年半の交際を経て京都と結婚したい。京都と恥じらいながら初夜を迎えたい。京都との間に2人の子供を授かりたい。京子(長女)を一足先に春の鴨川に連れてってあげたい。京子と京平(長男)が5歳と3歳になったら船岡温泉デビューさせたい。7歳と5歳になったら京都音博に連れて行きたい。帰って疲れ果てた京子と京平に、子守唄で宿はなしを歌ってあげたい。

 

最近いろいろコソコソ頑張っている。本当はちゃんと結果が実を結んでから書きたくて、途中で言葉にすると零れ落ちそうでひと月ぐらい我慢してたけど、なんかもう期待と不安で押し潰されそうなのでとりあえず文章にしたらこんな感じになってしまった。俺は京都に住むために文章を書きたいよ。

妹の消滅

近所にある小さなコーヒー屋さんでアイスオレを飲みながら本を読んでいると、女性二人組が店に入ってきた。彼女たちは僕の向かいの席に通され、和気藹々とメニュー選びに興じている。向かって右手の女性がお姉ちゃん、ともう一人を呼ぶ。どうやら姉妹らしい。本から目線をちらりと上げて様子を窺う。なんとどちらも美人だ。僕より少し年上だろうか。

美人姉妹というだけで、途端に本の内容が頭に入らなくなってしまった。目で追う活字をそっちのけにして、阿呆な脳みそは耳に入る彼女たちの声を処理してしまう。妹であろう女性の友達がベトナム旅行に持って行くカメラ選びに迷っているらしく、お姉さんが使っているソニーのデジカメを勧めたのだという。姉はそれを嬉しそうに聞いている。僕は同じ行を三回読んでいることに気づき、読書を諦めて煙草を吸いに店の外に出た。

 

僕には2歳年下の妹がいるが、兄弟姉妹という存在を、昔からきちんと認識できないでいる。

小学生の頃、しばしば母に「里佳子(妹)って“誰”なん?」と尋ねていた。もちろん、妹とはずっと同じ家で暮らし、同じ親に育てられているのだが、自分と常に寝食を共にしている友達でもない同年代の子供という存在が、何やら得体の知れないもののように思える瞬間があったようだ。喧嘩をすれば友達は友達でなくなってしまうこともあるが、どれほどひどい喧嘩をしても妹は妹で、兄は兄だ。しょっちゅう喧嘩をしていたから、その不条理さに困惑していたのかも知れない。

 

現在僕は24歳で、妹は22歳の年になった。初夏の頃に就職も決まり、来年の春からは社会人になる。未だに時々喧嘩をするが、「妹」という認識の喪失を起こすことはなくなった。それは、自分にとって妹とはそういう存在なのだということを認めたからだと思っている。

異性の兄弟姉妹をもつ友人たちは、大抵喧嘩をしつつも兄弟姉妹としての仲の良さがしっかりと根付いている気がする。僕と妹の間にはあまりそれがない。正直なところ、その責任の一端は僕にあるのだろう。とことこ後ろをついてくる妹を、煩わしさや恥ずかしさから突き放し続けてきた20数年の蓄積なのだと思う。

 

煙草の火を消して店に戻ると、美しい姉妹はとんこつラーメンの美味しさを讃える話に花を咲かせていた。ベトナムに行ったならとんこつラーメンなんか食べずにフォーとかを食べたい。妹が内定式から帰ってきたら、就職祝いにエスニック料理屋にでも連れて行こうかと思っている。

薬罐を火にかけ八月を沸かして

夏なのでまた、失恋をした。

あまりにささやかな恋だったので、正直なところ「恋」と呼べる代物かどうか定かではない。そもそも「好き」だったのかどうかも、今となっては随分あやふやなのだが、一抹の寂しさと喪失感になぜかホッとしているこの感覚は、学生時代に何度となく味わった「それ」に近いのも確かである。

 

ところで、恋とは。

正直なところ、もはや自分にとって「恋」が何を意味する存在なのかよくわからないし、24歳にもなってそんなことで頭を悩ませている暇もなくなってきてしまった。学生の頃は何かに取り憑かれたかのように、常に好きな人に胸を焦がしていたが、いつか友人に言われてしまったように「恋しているという状態に気持ちよくなっている」だけだったのだろう。そう簡単に認めてしまうのは、18〜22歳の自分に申し訳ない気もするのだけれど。

それぐらい、当時の僕の生活は「衣・食・恋・住」で成り立っていた。もとよりそんなに器用な人間でもないし、どれかひとつ忘れてしまわないと時間も感情も失われてゆく社会人生活などやっていけなかっただろうから、今にして思えばちょうど良かったのかもしれない。

 

 あまりよく知らないその人のことを思い出そうとするのだが、一度会ったきりなので顔も正確には覚えていない。自分も相手もよく笑っていた(そうであってほしい、という願望も入っているかもしれない)のだけれど、何を話したのかもほとんど忘れてしまった。ただ、たまたま見つけて入った梅田の洋食屋さんのオムライスが美味しかったことだとか、ふらっと入った喫茶店で腰掛けた椅子が可愛らしかったこと、七月の日差しがとても眩しかったことなど、その一日の背景の断片的な記憶ばかりがやけに鮮明に、脳裏に貼り付いている。それでも、一日(正確に言えばほんの半日程度の邂逅だったのだが)を通しての感情が「楽しい」のその先にある「幸せ」に分類されるものだったということは確かで、恋らしきものを予感するには充分だった。

 

八月のはじめ、彼女に恋人ができたのだそうだ。

 僕自身はともかく、「彼女は自分のことを好きではなかった」或いは「彼女が自分以外の誰かを好きになった」というだけのことだ。そのことをごく自然に受け入れられるようになったのはいつからだろう。これは進歩なのか、それとも退化と呼ぶべきなのか、自分でもわからない。蕩火にかけた薬罐の水がなかなか沸点に達しないままに火を消されてしまうようなことが多くなった、と考えると、そもそも自分に起因しているのかどうかも判断が難しいところである。コンロのツマミを回しているのは果たして、誰なのだろうか?

ごく当たり前で、同時に残酷なことでもあるのだけれど、水とエタノールの沸点が異なるように、人によっても喜怒哀楽の沸点はそれぞれである。僕が「幸せ」を感じた瞬間瞬間が、彼女にとっては全くそうではないことだって当然ある(逆もまた然り、のはずなのだが、どうしてなかなか巧くはいかない)。ばらばらのはずの互いの沸点がうまく共鳴して仲良く過ごしている人たちを見ると、羨ましいと言うよりも単純に、すごいなと思う。いや、やっぱ羨ましいな。

 

 先日、家で素麺を茹でながら、江國香織の『神様のボート』を読んでいた。前日に夜通し飲み歩き、朝方に帰って昼過ぎまで眠りこけた時のことであった。家族は墓参りに行っていて、ほんのりと後ろめたさを感じながら白い麺を湯に潜らせていた。

『神様のボート』は恋に囚われた女とその娘の物語だ。恋に恋して掴めない影を追いかけて「旅がらす」を続ける女の様はあまりに情動的で、ひどく滑稽である。

姿を消した夫(父)との再会を果たすべく住いを転々とする二人が、高萩を離れるあたりまで読み進めたところで、素麺の鍋が噴きこぼれた。慌ててコンロの火を消すと、入道雲のようにもこもこと湧き上がっていた泡はしおらしく萎んでいったが、茹だった素麺は鍋の中で踊り狂っていた。

素麺くらいに簡単に沸かせたはずだったのだが、と思わずにはいられない。熱湯ごと素麺を笊に揚げると、眼鏡がサッと曇った。

犬は歩くトコトコ、象は歩くノシノシ

もうすぐ6月が終わる。あっという間だ。もはやこの先、時間があっという間じゃないことなど無くなってしまうのだろう。

楽しい時間は矢のように過ぎていくものだけど、鬱屈とした時間も目まぐるしく過ぎていくのは、救いでもあり老いでもあるようで少し侘しい。

 

6月1日木曜日、帰宅中に駅の階段で左足を骨折した。

珍しく19時前に会社を出られたので、さっさと家に帰って本でも読もうか、はたまた撮り溜めしていた映画を消費しようかと、足取りも軽く階段を降りているところだった。上りも下りも一段飛ばしをするのは僕の悪い癖だと、今になって痛感する。目の前にヌッと、歩きスマホの人が階段を駆け上ってきたのにハッと気づく。とっさに避けようとして足を踏み外し、3〜4段分くらいの段差を落下、左足の甲から着地した。

こういう事故だったり大きな怪我をする瞬間はスローモーションになる、なんて話はきっと後付けでしか無いが、身に迫る不可避の危機に直面した瞬間、人はマスターベーションの後のように冷静になれるということは確かだ。パキッと小気味の良い音が身体の内側から響き、折れたな、と僕は直感した。患部に激痛が疾ると同時に、人体の神秘たる機関である脳はエマージェンシーを全細胞に発令、ドーパミンだのエンドルフィンだの脳内麻薬を分泌し、身体の主たる僕がその痛みで発狂、絶叫、ないしは失禁といった社会的スーサイドを遂げぬよう適切な信号を送った。

理性を保ったままひとまずソロソロと立ち上がって電車に乗り、なんとか家の最寄駅に到着するも、そこから15分歩いて自宅まで帰るのはどう考えても不可能であった。駅前でタクシーを拾い、救急病院で診てもらい、レントゲンを撮ってもらう。

「折れてますね」

医師の宣告に半ば食い気味で

「知ってます」

と喉まで出かかったのを押し止められたのも、脳内麻薬のおかげだろう。こんなにドキドキしない宣告も初めてだった。ともかくその場でギプスを装着され、僕は約4週間の松葉杖生活を余儀なくされたのであった。

 

しかし、松葉杖がこんなにも欠陥のある移動手段だとは思わなかった。

まずはじめに腕が悲鳴をあげる。一歩進むごとに自重を丸ごと両腕で支えなければならないからだ。耐えかねて脇 a.k.a. 毛細血管がいっぱい詰まってるとこ に身体を預けるようになると、きっちりそのツケが痛みとして回ってくる。次いで、折れていない右足が、不自然な着地や常に全体重が乗っかっている状態のために靴擦れしてくる。満身創痍の出来上がりである。1日目はとにかく通勤だけでヘトヘトになった。そして、腕はともかく百歩譲っても脚だけは怪我しちゃいけない、そもそも脚を怪我していては一歩も譲れないのだ、と悟った。

 

梅雨のこの時期に雨がほとんど降らなかったのは、不幸中の幸いと言う他ない。平日は家族の自転車を借りて駅前で乗り捨て、追ってそれを取りに来てもらうという通勤を繰り返した。そのうちに、胸板がえらく分厚くなってきた。松葉杖で家から会社までの道のりが思いの外苦ではなくなりつつあった。実家暮らしの有り難さに、ずいぶん久しぶりに気がついた。

休日は専ら家で安静にしているか仕事しているかの二択だった。タイミングの悪いことに、ただでさえ祝日がないのに休日出勤まで多い月だった。入れていた遊びの予定はすべてキャンセルした。普段丸一日家にいるという休日を過ごすことがほとんど無いので、精神衛生上とてもよろしくなかった。それこそ、撮り溜めてある映画や積み上がった本を読んでいればよかったのかもしれないが、いざ「24時間」という膨大な単位の時間を塊で与えられても、行動の割り振りが咄嗟には出来ないのである。自由に外に出られないということが、何よりキツかった。

周りの人がキビキビ動いていたり土日にちゃんと遊んでいたりするのを見ていて、大げさなことを言うと、自分だけ人生が停まってしまっているような気がした。みんな何かしらの形で前に進んでいるのに、足が折れていようがいまいが、僕は何も進んでいないのではないか?と思い至ってしまった。

 

月曜日、ようやくギプスが外れた。

脚を傷つける恐れのないよう、最近ではノコギリやトンカチではなく共振でギプスを割るらしい。ギプスと骨が同じ振動数で割れなくて良かった。科学はすごい。風呂に入って左足をタオルで擦ると、ビックリするぐらい垢が出てきた。機能していなくても、人生が停まってしまっていても、左足はしっかりと新陳代謝していた。

今は松葉杖をつきながらも両足で歩いている。もともと歩くのが速いので、遅々とした歩みがもどかしい。だが、テクテク歩くおじいさんにも抜かされてしまうようなこの歩幅が、いまの自分にちょうどいいのだろう。ソロソロ歩きでも前に進めたらそれでいい。この歩幅で進んでいきたい。

 

 

白磁の初恋

今にして思えば、あれは初恋だったのだろう。

 

父親の仕事の都合で、私は幼い頃からジプシーのように日本中を転々としていた。まだ物心もつかないような昔には家族そろって北海道に住んでいたこともあったらしい。当時名古屋のアパートで、北の大地への転勤の報せを食卓で父から聞いたときのショックを、母は「さすがに箸が止まった」と語った。

私に芽生えた自我が記憶を構築するに足りるほどに成熟しだした頃、一家は石川・金沢に暮らしていた。6歳を迎えた私は小学生となり、片道30分かけて通学する日々を送るようになっていた。

学校近くに住んでいる生徒は各々一人で登校していたが、私のような遠方からの生徒は近所の1~6年生で7、8人の班を組んで登校するのが決まりであった。同じ通学路をゆく別の班に、ニシムラさんはいた。

 

ニシムラさんは同じクラスで、一番背の高い女の子だった。活発で明るい性格も相まって、すぐに彼女はクラスの中心になった。後にじゃりン子チエを初めて見たとき、彼女の髪型はチエのそれにそっくりだったのだということを知った。

彼女とどんな話をしたかなどはさっぱり覚えていない。小学一年生の頃のことだ、男子が話すことなど誰に対してもおおかたデジモンポケモンと相場が決まっているし、そもそも教室で女の子と仲良く喋ろうものなら冷やかしの対象となってしまう。それでも、家が近所ということもあってよく一緒に下校していたように思う。ニシムラさんの家は私の通学路の途中にある神社の近くにあって、そこは専ら子供たちの遊び場でもあった。近所には一般的な遊具一式が揃った公園もあったが、不思議と神社の方で遊ぶことが多かった。

ある日の夕方、ニシムラさんを含む何人かで下校している時のことである。学校からの長い道のりの途中から、私は尿意に襲われていた。そろりと首をもたげた尿意は歩みを進めるごとに「出してくれ」と主張するその声を大きくしていく。次第に口数が減り、冷や汗をかき、足取りが奇妙になっていく私の様子に、同級生たちは誰も気がつかない。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ようやく神社までたどり着いた。この時私は、半分諦めていた。ここから家まであと10分はかかる。神前ではあるが神様も助けてはくれまい。自分にできるのは、なるべく人目につかないところを探すことぐらいだった。その時、ニシムラさんが私に顔を近づけて耳打ちした。

「うちのトイレ、貸したろか」

ニシムラさんはずっと、私の内なる闘争に気づいていたのだ。感謝と羞恥で答えに詰まる私の返事を待たず、ニシムラさんは一緒に帰っていた同級生たちに「じゃあね」と言って、神社から徒歩30秒の自宅へと私の手を引いて走った。

 

彼女のおかげで私は「お漏らし野郎」のレッテルの授与を回避できた。しかし、その日以来、下校中に神社の前で尿意をもよおすサイクルができてしまった。学校を出る前にトイレで用を足しておいても、神社に到着する頃には尿意が爆発せんばかりに膨れ上がっていた。そしてその度に、私はニシムラさんの家でトイレを借りた。

そのうち、ニシムラさんと帰っていないときでもおばさんに断ってトイレを借りるようになった。おばさんは嫌な顔一つせず、ほぼ毎日トイレを貸してくれていた。いつか、ニシムラさんがうちの近所の公園で遊んでいてトイレに行きたくなったら貸してあげよう、と思うようになった。しかし、ニシムラさんがうちのトイレを使うことはなかった。

小学二年生に上がる少し前に、我が家の名古屋への引越しが決まった。

春休みに入る最後の登校日、クラスでは私のお別れ会が開かれた。色紙や手紙、手づくりのプレゼントなどをクラスメイトからたくさんもらった。その中の一つに、「かなざわでトイレいきたくなったらまたきてね」と書かれた手紙があった。

その後も何度か繰り返した引越しの中で、贈り物はみんなどこかへ行ってしまった。あのトイレへの招待状も失くしてしまったが、いつか私が金沢の地でもよおしてしまった時、ふと目の前にあの白磁の便器が現れるような、今でもそんな気がしている。

やく男、かく男

今年めでたく厄年を迎えた僕の最初の災厄は「肌荒れ」という形で訪れた。

肌荒れごときで災厄とは大袈裟な、と思われるかもしれないが、凡そ首から上で褒められたところが肌の綺麗さしかない僕にとっては一番の災厄と言っても過言ではない。持たざる者から唯一の拠り所を奪い去る、これを災厄と言わず何と言おうか。はじめは冬場の乾燥した空気に負けて少し粉を吹く程度だったのが、頬などが硬くパリパリになってきて、今では顔全体に湿疹ができて薄っすら赤くなっている。

去年まではこんなこと無かったのに。桃井かおりは何歳からがお肌の曲がり角と言っていただろうかなどと考えながら、風呂上りにフェイスローションとニベアを塗り込む日々を過ごしている。ここ最近の不摂生(主に会社の陽気な上司に連れ回される夜会)が祟ってのことであろうが、学生時代も同じようにしょっちゅう夜な夜な飲み歩いていたことを思えば、なんだかんだで「ストレス」とかいう言葉で片付けられてしまうありがちな問題なのかもしれない。

 

話は変わるが、最近グダグダ悶々としていたダウナー期を抜けて(つい最近まで「ダウナー」がこんな便利な言葉だとは思わなかった)、ゆっくりとではあるが自分の望む方角を目指して少しずつ歩けるようになった。

まず、小説創作講座(全3回)の1回目に参加してきた。エンタメ・掌編小説を得意とする松宮宏 氏を講師に迎えた、小さなワークショップである。小説家になりたいわけではないが、物語を生み出す頭の使い方や、読みやすい面白い文章を書く力を付けたかったのだ。現在も第2回に向けた課題にしこしこ取り組んでいる。

もうひとつ、街の本屋さんを紹介するキュレーションサイト「読読(よんどく?)」にサポーターとして参加している。

http://yondoku.jp

主には読読に取り上げられているお店の人がオススメ本を紹介したり、自分のお店で行うイベント情報を発信したりしているところに、ただの一読者として「侭よ」と飛び込み勇んだかたちである。他のサポーターの方々の文章が上手くて、拙文をアップした後あまりの文字どおりの拙さに眩暈がしたけど頑張って続けていこうと思う。インターネッツの匿名性をフル活用して偉そうに書評とかしてやろうと目論んでいる。文章と恥はかいてナンボだ。

 

才能などは無いので、書きながらもすぐに手は止まる。考えがうまくまとまらないことなどしょっちゅうだし、こんなブログですらやっとの思いで一記事書き上げている。それでも、書いている時は幸福感で満たされている。今はまだこれは寄り道みたいなものだけど。

ペンを持つ手にも熱がこもり身体が上気してくると、血行が良くなり湿疹が痒くなってくる。ポリポリ頬を掻けばポロポロ薄皮が剥ける。これもひとつの脱皮かもしれないな、と思いながら、かくことをやめられずにいる。