クジラと宇宙を泳ぐいくつかの冴えたやり方

クジラ好きなウチらクジラ主義者

平成にはアマトキシンを 有色人種にはマシンガンを

2018年の面影を色濃く残したままに、2019年を迎えて2週間が経つ。

明けましておめでとう、という新年における構文は使い古された一発ギャグのようで安心する。何はなくとも明けましておめでとう。今年も宜しく。それに代わる変化球の挨拶を考えさせる余地もなく、人々はテンプレート化した言葉を交わす。誰が何をしなくとも自然に明ける年を「おめでとう」と祝いあえる、その乱暴なまでに無責任な祝祭感に笑いそうになってしまう。

やがて新年の緩慢な非日常は、長い休暇の終わりともに鳴りを潜める。正月番組が終わりいつものニュースやドラマが始まる頃には皆、去年と変わらない日常を嘆いたり喜んだりしながら日々を進める。

 

回るのは季節とかレコードだけで、世界における(文字通りの意味での「世界」でも、個人個人にまつわる身の周りの小さな世界でも)由無し事のほとんどは何も変わらない。それでも人々は自らつくりあげた「暦」なる概念に意味を見出し、気持ちを新たにしたり何かを忘れたりする契機としてそれを拠り所とする(そして僕は同じようなことを毎年言っているな、と思い至り、少し辟易する)。

見えない力で改まった気持ちをもって、幾らかの人々は行動する。大仰に言えば人生に、細かく言えばある人は仕事に、ある人は学問に、またある人は人間関係に、前進(或いは方向転換)を求めて。

 

年が明けてから幾つかの恋の話を聞いた。前進、停滞、寄り道。時間の進み方が一方向である以上、後退はない。いずれにせよ、年を重ねるごとに色恋の話は(語り手にとっても聞き手にとっても)質量を増す。水をたっぷり吸った真綿のようなそれらは、良くも悪くも10代の頃のような軽やかさを失い、その足取りは砂漠を行くキャラバンのようにずしりと重いことが窺い知れる。歩みを進めるのにも、積み荷をおろすのにも、力が必要なのだと気づく。然るべき道がもしあるのならそこを正しく歩きたいのだけれど、大人になっても僕たちは道路標識の読み方がわからない。或いは、自分が目指す先さえも知らないのかもしれない。

だから僕は、できるだけたくさんの人に優しくあり続けたい。歩き疲れた人には水を差し出し、足を引きずる人には肩を貸したい。だから、いつか僕が路頭に迷い立ち尽くす時、どこか遠くから名前を呼んでほしい。いつか僕が土砂降りの雨の中でうずくまる時、隣で傘をさしてほしい。僕は自分のひ弱さを嫌というぐらいに知っている。今日、ぼろぼろと涙を流しながらビールを煽り、「この人いつもこうなんですよ」と周囲からの失笑を買っていた彼女は、いつかのどこかの僕であったのかもしれない。

 

半年も待たずに、平成が終わる。ひとつの時代が終わる。遅効性の毒を盛られるがごとく、ゆっくりと死んでいく平成の亡骸から生まれる新しい時代よ、幸、多かれと、小さな僕は優しく生きる。

 

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クジラジャム'18

2018年が終わる。
マジか。マジかという気持ちである。年々時の流れの早さに驚いているのだが、今年はおかしかった。この一年はなんだか特別すぎて、脳のCPUが追いつかない。恐ろしい。
そして例年にも増して音楽を聴いた一年であったようにも思う。ライブもけっこう行ったし、なぜかレゲエバーでラップもした(なんで??)。なので、人生で初めて年間ベスト的(アルバム単位)なのをやります。専門的なことは何も言えないのですが、この人こんなの聴いてるんか、ぐらいのテンションで見てもらえるとちょうどいいかなと思います。


・ai qing/KID FRESINO

ai qing

ai qing

  • KID FRESINO
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥2000
2月に「coincidence」が先行リリースされて3月にPV公開された時点で、今年ヤバいんちゃうかという期待がブチ上がってしまった。で、案の定アルバムもこの仕上がり。10月に味園のCHOICEでSeihoと出てたステージングも最高だった。髪型だけ見れば金属バットだった。

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・DREAM WALK/パソコン音楽クラブ

DREAM WALK

DREAM WALK

  • パソコン音楽クラブ
  • エレクトロニック
  • ¥1500
パ音はいいよなぁ〜〜ライブ行かなきゃな〜〜つって今年3回ぐらい干した(バカなのだろうか)。いや、ホントに生でライブ観たいのよ。もうさ、あんま遅い時間にメトロでやるのやめようぜ。でもやっぱ踊り疲れた3時ぐらいから聴きたい気持ちもあるよ。「Inner Blue」名曲すぎんよ〜〜Batsu氏によるremixも最の高。

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・愛をあるだけ、すべて/KIRINJI

Aiwo Arudake, Subete

Aiwo Arudake, Subete

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥1900
コトリンゴが脱退したのは本当に残念なのだが、決してぶれないその幹の太さ、その姿の異質さたるや、さながら屋久杉である。「非ゼロ和ゲーム」とか、どうかしてるとしか言いようがない。ググれば堀込兄の思う壺と思い癪だったので、Yahoo!で検索した。タイトルのキャッチーさ、メロディのポップさ…This is Grooveの極北。

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・Love Me/HONNE

一気にジャケの方向性が変わって笑った(怖い)。あのダサい日本語帯が好きだったのでちょっと残念な気持ちだったけど、曲は全部とても良かったです。去年の「Just Dance」はかなり踊れてカッコよかったけど絶妙にダサい感じもあって、でもそこもまた良かった。俺はホンネにちょっとダサくあり続けてほしい。

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・Traversa/Geotic

Traversa

Traversa

  • Geotic
  • エレクトロニック
  • ¥1500
いわゆる美メロエレクトロやな〜〜という感じ。そういうのはもともと好きなので、久しぶりに聴いても気持ちよく聴ける。ひたすらに聴きやすくて、SF読むとかそういう時に聴くとサクサク読めそう。i am robot and proudと同じカテゴリだと思っている、アニメーションとの親和性たかそうな感じとか。知らんけど。

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・POLY LIFE MULTI SOUL/cero

上半期のベストはと問われたなら、これだと言わざるを得ない。ブラックミュージックやアフロビーツの音像、或いはポリリズムを取り入れた大胆かつ緻密な曲構成。別に洋楽と邦楽でどちらが優れているかといったクソみたいな議論に興味はないが、ここまで「世界の潮流」を読みそれをこのクオリティでアルバム作品としてまとめ上げられる日本人のアーティストがどれほどいるのか、と考えてみると、ちょっとcero以外には出てこないようにも思える。アルバム内の楽曲につけられた「遡行」という曲名がワールドワイドな彼らから見た日本のミュージックシーンに対する皮肉、というのはもちろん僕の邪推である。

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・Cassa Nova/落日飛車

Cassa Nova

Cassa Nova

  • 落日飛車
  • ロック
  • ¥1500
バンド名がいいですね、本当に。字面最高な上に「サンセットローラーコースター」て。アジア圏のバンドとかアーティストがアツいアツいとは小耳に挟みつつもちゃんと聴くようになったのは今年からでした。シティポップ、AORの流れを汲みつつエスニックなエッセンスも加えつつ(そうなのか?)アルバム通してええ塩梅になってるように思います。「Cool of Lullaby」が特に好き。

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・Crumbling/空中泥棒

Crumbling

Crumbling

  • 空中泥棒
  • シンガーソングライター
  • ¥1350
名前が素敵シリーズ。“Mid-Air Thief”て。もともとは『公衆道徳』名義で活動してた韓国の人のソロプロジェクト。Apple Musicの当てにならないジャンル分けでは「シンガーソングライター」となっているがあんまりそういうのも気にせず聞いた方がいいな。お、女性ボーカル入ってるやんと思って調べたらSummer Soulの人だった。アルバム通してなぜか立ち並ぶ公団住宅とかの風景が想起される感覚というか、奇妙な懐かしさがあって大変素晴らしい。

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・ソングライン/くるり

サンキューくるりサンキュー岸田!音博ちょう楽しかったぜ!!ハイネケンバドワイザーで乾杯や!!!

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・Freeway/んoon

Freeway - EP

Freeway - EP

  • んoon
  • R&B/ソウル
  • ¥1000
この夏一番聴いたかもしれない。PVのサムネからは想像もつかないほどの極上のボサノヴァです。そしてだんだんこの曲にはこのPVしかないと思わされるようになる。なんなら一回夢にも出てきた。「Tragedy」とかも聴いてて心地よい。EP入手しそびれたの悔しいよ俺は。

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・Room 25/Noname

Room 25

Room 25

  • Noname
  • ヒップホップ/ラップ
Noname普段からめちゃめちゃ聴きこむ感じのラッパーではないけど、声がすごい好みである。今でこそサグめのギャングスタラップも好き(笑っちゃう)だけど、こういうR&Bの延長線上にある感じのメロウなビートに乗っけるフロウのラップはシンプルにストレスなく聴けるので相対的にヘビロテしがち。外国のラッパー(ラッパーに限らずですが)はポリティカルなメッセージとか社会に対するオピニオンをしっかりリリックに組み込んでいるイメージが強くて、そこを踏まえた聴き方ができるともっと面白いんやろうな……と思う。「詩人」と呼ばれる彼女の楽曲であればなおさら。

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・なんて素晴らしき世界/Tempalay

いつの間にかベースが脱退してキーボードが加入していたTempalay。メンバーは変われど洒脱なサイケっぷりは健在で、アッパーとダウナーの間をふらふらさまよう感じのグルーヴが最高。先行リリースの「どうしよう」は「Oh.My.God!!」ぶりに食らった。

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・BALLADS 1/Joji

BALLADS 1

BALLADS 1

  • Joji
  • R&B/ソウル
  • ¥1500
Jojiといい88risingといい、今年はこの辺の勢いが凄かった。YouTuberから本格的にアーティストに転向するのってイメージ的にも絶対難しいと思うのだけれどそれを成し遂げてるわけだからやっぱり才能マンなんやな……。とりあえずPVで死にすぎ。

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・The Beam/BIM

The Beam

The Beam

  • BIM
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥2000

みんなのアイドルBIM坊ちゃんの待望のソロアルバムだ!!全16曲という大作である。PUNPEEが参加した「BUDDY」は言わずもがな、jjjプロデュースの「Tissue」が個人的にめちゃめちゃツボ。hookの「乾いたウェットティッシュは なんでゴミ箱の中で泣いてる それは一体なんでか聞きたい」の意味を聞きたい。

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・Quarterthing/Joey Purp

Quarterthing

Quarterthing

  • Joey Purp
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1500
この記事を書くにあたっていろんな人の年間ベストを参照したけど、なぜかこのアルバムは誰のベストにも入っていなかった(Mitskiの「Be the Cowboy」はどこのベストにも入ってた)。でもホンマに好きや〜〜Joey Purp。シカゴのラッパー感ゴリゴリで、ただただカッコいい。頼むからフィジカルリリースしてくれよ。買うし。リード曲のElasticの切れ味は異常。

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・Saturn/Nao

Saturn

Saturn

  • Nao
  • R&B/ソウル
  • ¥1600
R&Bというジャンルで言えばこの人の声もまた異質な部類に入りそう。美声というよりクセのあるハイトーンボイスといった声質で、それがまた不思議と良い。そういえば去年MURA MASAと一緒にやってた「Firefly」も名曲やったな〜〜

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・Animals Acoustic/TTNG

ほとんどポストロックらしきポストロックは聴かないけど、TTNGに関しては追わずにはいられない。This Town Needs Guns名義だった2008年にリリースされたアルバム「Animals」のアコースティック版。アルバムタイトル通り、すべての曲が「Chinchilla」「Panda」「Lemur」と動物の名前が付けられている(Lemurって何かと思ったらキツネザルでした)。きっちりアコースティックに再構築されていて聞き応え十分。

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・Inside Voice/Joey Dosik

Inside Voice

Inside Voice

  • Joey Dosik
  • R&B/ソウル
  • ¥1650
Marvin Gayeと比較されることも多いJoey Dosikの1stフルアルバム。ホワイトマーブルのカラーバイナルが実にオシャレで気に入っておりますが、内容もしっとりとした歌声とメロウなサウンドがとにかく聴かせる楽曲揃い。「人間のための人間の音楽」というコンセプトは伊達じゃない。

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・Cranberry/Hovvdy

Hovvdyのジャンル分けやら紹介文なんかを見てると「ベッドルームプロジェクト」なる文言が出てくることがあって、意味はよくわかってないけどHOMESHAKE(マック・デ・マルコの元ギターのソロプロジェクト)もそんな呼ばれ方してるな……なんてことに思いを馳せてみるとふわっと理解できるようなできないような……。そもそもは制作環境としてシンセとかMTRさえあればスタジオでなくとも寝室程度のスペースでも音楽は作れる、的な意味合いからついた名前だったと思うのだが、概して浮遊感や広がりのあるサウンドが特徴的な、まさに寝室でリラックスして聴くのに打ってつけの楽曲が多いんだよな、という所感。てか、もはや「ベッドルームポップ」なるジャンルもあるみたいだし、そういうのとごっちゃになっちゃってんじゃないか。言わずもがなですがPetalは大名曲なので未聴の方は是非。

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・Stray Dogs/七尾旅人

七尾旅人もまた、変わるところはガラッと変わるし、それでいて大事なところはずっと残しておくみたいなことがしっかりできる器用な人やな〜〜と思う。「Leaving Heaven」は「メモリーレーン」に似てるけどどちらも好きです。「DAVID BOWIE ON THE MOON」はなかなか衝撃的だった。

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・Eutopia/STUTS

Eutopia

Eutopia

  • STUTS
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1800
結局こうなってしまうのである。年間通していろんな楽曲がリリースされる中で、できる限りその多くを耳に入れたいと思う一方で自然と繰り返し聴いてしまう音楽がある。そのクレジットにはSTUTSという文字列がよく並ぶ。今年1番聴いた楽曲は何か?ーー正直に言えば去年の暮れにリリースされた、STUTS×SIKK-O×鈴木真海子の「Summer Situation」だ。

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このアルバムには仙人掌、一十三十一鎮座DOPENESS長岡亮介など、いろんなジャンルのアーティストが参加していて、それらのアーティストが一枚のアルバムの中で誰かが浮くとかいうこともなくそれぞれに魅力を発揮できているというのは、偏にSTUTSというトラックメーカーの実力の証左でもある。全ての楽曲に共通して感じるのは、feat.するアーティストへのリスペクトだ。
そんなSTUTSのスタンスを象徴しているのがアルバムのラスト15曲目、JJJが参加した「Changes」である。「全て罪に目を瞑る」から始まる歌詞の端々にはFla$hBackSの元クルーであるフレシノへのメッセージや、同じくクルーでありながら今年2月に夭逝したFebbへのR.I.Pが感じられる。そのリリックがSTUTSの美しくも哀愁漂うトラックに乗せられている。そして先日、この曲のPVが発表された。

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新たな命を授かったフレシノ、旅立ったFebb、その二人へ向けられたJJJの眼差し。その瞳に込められた想いをただのリスナーでしかない僕なんかが正しく言い表すことは勿論できないが、例え月並みな表現でもその気持ちを「愛」という名前で呼ぶことは間違いだろうか。2018年のアンセムとしてこれ以上にふさわしい音楽を僕は知らない。


もっともっといろんな楽曲があって、思い返せばきりがないのだが、悲しいかな、そろそろ今年も終わってしまう。平成もたけなわ、これにて聴き納め。音楽との出会いがアホみたいに素晴らしい出会いをつくってくれることを僕は知っている。

醜悪のグルメ

冬になってから自炊する頻度が増えた。

と言っても包丁を握るのは週2~3回程度であり、その他は飲みに行ったりレトルトカレーや安売りのお惣菜で済ませたりといった具合である。節約意識とかそういうのもあるにはあるのだけれど、案外キッチンに立つことが嫌いではないらしい。これは実家にいるころには全く気づけなかったことで、けっこう驚いている。四半世紀生きていても、俺は自分のことをあんまりよくわかっていないのか、と思うと少し興奮する。

自炊をするうえでのあらゆる工程にも、あまり嫌なところが見当たらない。材料を買い揃えるにあたって、冷蔵庫に入っているものと組み合わせていかに効率よく消費していくか算段するのは面白いし、食材の値段を比較するためにスーパーや八百屋をはしごするぐらいの手間も厭わない。汚れた食器は溜めこみがちだが、まとめて一気に洗うことで爽快感を得られるだけの心のゆとりもある。これが毎日となると話は変わってくるんだろうけれど。

 

キッチンはとても小さく、洗い場も狭ければまな板を置くスペースも十分とは言いがたい。もちろん一口コンロである(「ひとくちこんろ」の視認性の悪さよ)。狭いキッチンで出来ることは限られており、一度に作れるメニューはひとつだけだ。お肉を焼いてみたり、丼ものを作ったり、麺類をゆでたりする。それに加えて作り置きしていたサラダとか、或いはパックのめかぶや納豆を食べて晩ごはんとする。使い勝手は悪いのだが、逆に自炊経験の浅い独身男性の身の丈に合った設計とも言える。キッチンのキャパシティが完全に僕の実力とマッチしているのだ。現状でアイランドキッチンなんか与えられたりしたら何をどうすればいいかわからず、無人島以上に孤独を味わうことになると思う。多分、シンクにケチャップでSOSとか書く。

食べるのは基本的に自分だからもう自分で言ってしまうのだけれど、味はまぁ普通に美味しいと思う(少なくとも自分好みの味にはなっている)。その代償に、とにかく見た目が終わっている。色味も悪ければ「盛り付け」という概念すらない。そんな自らの手で生み出してしまった哀しき料理(モンスター)たちに対してフランケンシュタイン博士のように非情になれない僕は、慈しみをもって「ブス飯」という名前を与える。見た目は悪くても中身はいい奴らなのだ。

(自分好みの)味以外にも、ブス飯のいいところはたくさんある。まず、ブス飯は無駄が省ける。「仕上げにパセリを添えて~」「パプリカパウダーを散らして~」といった、見た目に彩りを加える工程はすべて無視できる。なぜなら、パセリを添えようがパプリカパウダーを散らそうが、雨が降ろうが槍が降ろうがブス飯はブス飯なのだから。

また、ブス飯がブス飯たる所以の最たるものに「量がおかしい」というものがある。食材を使いまわすという高等技術を持たないため、買った物はなるべく一料理で使い切るというのがブスコックのポリシーである。その結果、異常に鶏肉が多い親子丼、水菜まみれの和風パスタ、麺を遥かに凌駕する大量の具材がブチ込まれた主役不明の煮込みうどん、といったブス飯たちが生成される。僕は食べものの味に飽きることを知らないので、うまいうまいと言い続けながら2〜3日に分けて彼らを消費することができるのもいいところだ。

さらに、ブス飯によってはタッパーに保管して友だちにあげることもできる。あまりよそ様にお出しできるようなビジュアルではないが、そもそも僕は信頼できる奴にしか哀れな我が子を預けるような真似はしない。また、客観的な感想を聞くことによって次なる自炊へのステップアップに、圧倒的成長につながる。僕は発作的に意識が高くなる。

 

正直、身長のわりにはあまり食べないし(基本的に1日2食)、食事に対する頓着もそれほど無いのだが、それでも自炊するのは「家でご飯を食べるよろこび」をめちゃくちゃ知っているからだ。

実家にいるころは、だいたい母親の作った料理を食べていた。大学に入ってからは外食の頻度も増え、社会人になってからは家でご飯を食べるのは平均週3日ほどだったと思う。しかし、僕は家のごはんが変わらず好きだった。母がふつうに料理が上手い部類に入るというのも、もちろんある。ただ、別に家族みんなで食卓を囲んで、というのが良かったわけではない。むしろ、仕事終わりに終電で帰宅した夜そろそろとリビングへ向かい、ラップのかけられたおかずをチンして食べるのが好きだった。一人だろうが複数人だろうが、外食はイベント性があって楽しい。一方、一日を家のごはんで締めるという行為には安心感がある。誰の目も気にせずに好きなペースで好きなように食べるごはんは、よろこびの味がするのだ。

 

いま、家のフライパンのなかには2日前に作ったサグカレーの残りが鎮座している。出来上がったとき、「これはまず『カレー』としての必要十分条件を満たしているのだろうか」と逡巡した(そもそも「出来上がった」の判断に迷った)。ほうれん草とからし菜を合わせて15ヮくらいひたすらみじん切りにして煮込みまくったと言えば、概要は想像がつくかもしれない。それがフライパンにこんもりである。食べるとまぁ、悪くはなかった。

カレーというのは面白いもので、大体なんでも2日目のほうがおいしくなるようだ。昨日改めて食べてみると、なんだか深みが増した気がする。今日食べ切る前に、パクチーを追加投入しようかなどと考えていると、帰る道中でそわそわしてくる。家では安心できるブスが、僕の帰りを待っている。

 

名前を知らない感情に名前をつける行為

この前リリースされたTHE 1975のアルバム『A Brief Inquiry Into Online Relationships』がとても良い。

耽美的なメロディや全曲通して感じられる躁鬱綯交ぜになったようなポップネスは、年末特有の高揚感とある種の諦観(「来年から頑張ろう」みたいな)にシンクロするところがあるような気がする。
そういえば今年のはじめに「レビュー記事」的なものも書いてみようとか言ってたのに、結局『勝手にふるえてろ』の感想文しか書いていない。メディアのレビュー記事によくある「◯曲目の××は◼️◼️の影響を色濃く受けている」みたいな情報、自分の知識が浅すぎてとても書けない。個人的にはそんな情報より、「◯曲目を聴いていると無意識のうちにいつもの発泡酒ではなく、いつかどこかの道の駅で買った(ちょっと高かった)地ビールに手が伸びていた」みたいな感想のほうが知りたい。

1泊だけではあるが3、4ヶ月ぶりに実家に帰省した。大都市と大都市に挟まれた1ベッドタウンなので特別目新しい変化もない。と思ったら、マンションの立体駐車場のエレベーターが9月の台風以降ずっと故障中になっているのだという。それだけの期間修理されないエレベーターなら、もう要らないのではないだろうか。大きな災害がもたらした小さな気づきだ。
父親とは未だに口を聞いていないが、以前のような殺伐とした空気感はずいぶん薄れた気がする。自分が過去を許せるようになったからか、シンプルに顔を合わせる機会が少なくなったからかはわからない。父親はマンションの自治団体の園芸理事になっていて、朝早く棟内の家庭を対象とした「チューリップの寄せ植え体験」の運営をした後、出張で東京に発った。

父親に対して自分が持っている感情に名前が付けられない。少なくともつい昨年までは、それには「憎悪」や「憤怒」といった名前が付いていたはずだったのだ。自分の目に父親は「身勝手で無責任、幼児退行したような中年男性」と映っていたし、父親は自分のことを「フラフラしていて怠惰な放蕩息子」と思っていた(たぶん第三者が見ても両者に同様の感想を抱くだろうな)。そもそも反りが合わないところに、ひとつの事件が勃発して殴り合いの喧嘩になった。以来、4〜5年ほどまともに口を聞いていない冷戦状態が続いている。
小休止に至ったのは、おそらくお互いにその緊張状態に疲れたことだったり、母親が何かと仲を取り持とうとしたことだったり、いろいろな要因があると思う。それを「時間が解決した」のひと言にまとめてしまうのは、些か乱暴である。

「エモい」という言葉の汎用性について、古語の「をかし」みたいなものなのだから批判するのはナンセンスだ、という旨のメンションをTwitterで目にした。なるほど、と思う一方で、「をかし」で表現しきれないいろいろな感情になんとか名前をつけたかった昔の人が、現在の口語に繋がるさまざまな言葉を生み出したのかも知れないな、と想像してしまった。人と人は完全にわかり合うことなどできないのだから、せめてこの名状しがたい感情だけでも名前をつけて共有したい、という風に。
僕は父親との関係についてのこの感情に名前をつけたいのだろうか。正直それも定かではない。だが、この感情を他者と共有するだけじゃなく、この感情と向き合う方法のひとつとして名前をつけてやるということも可能なのではないかとも思う。それにはまだもう少し時間がかかりそうなのだけれど。

実家から京都に戻る帰路、中高生の頃に好きだった近所に住んでいた女の子の家が綺麗さっぱり無くなり、売地になっているのを見つけた。この気持ちにもしばらく名前がつけられそうにないな、と思いながら、例えば泣いたりすることもできぬままに僕は駅へと向かった。


(追記)
そういえばこないだ友人が「自分の好きなものに理由のない奴は信頼できない」と言っていて、ふむ~~~~と思ってめちゃめちゃ長い鼻息が出てしまった。

僕が読みはじめた彼女は

ここ最近、デイリーポータルZのライターである古賀及子さんのブログを読んでは嫉妬している。

mabatakiwosurukarada.hatenablog.com

子どもたちに見たことがない商品を探させるが持ってくるのを見るとことごとく私は知っており大人と子どもの見聞の広さの違いを実感した。

子どもたちは、自分が知らない商品をしかし私は知っていることを特に気に病む様子がないのでよかった。

私は小学3年生のとき、もう小学3年生なのに自分が何も知らないのを恥ずかしいと思ったのを覚えている。

知らないことはいつでもこれから知ればいいだけなので恐れることはない。

ここ数日でいちばん好きな記事のいちばん好きな箇所。母親のまなざしは、25歳男性には持ち得ぬ視点だ。逆もまた真なり、とも思うのだが、「25歳男性特有の視点」って何なんだ。僕が持ちうる固有の視点など「身長186cmからの視点」ぐらいしかない。

 

常々、女性の書く文章はピントの合わせ方が上手いという風に考えているのだけれど、彼女のブログのせいで一層その認識を強くしてしまう。文章における「面白さ」って例えば、笑いのネタの勢いだとか、台詞回しのユニークさとか、創作ものであれば物語を展開させる想像力とかいろいろあって、それぞれに特化した書き手は男女問わずいるんだけど、「日常を切り取る着眼点」みたいなものに優れた人はやはり女性のほうが多いような気がする。もちろん、あくまで個人の実感だ。前述の古賀さんもそうだし、『冷凍都市でも死なない』の「渋いギャル」こと郷田いろはさんや、『はい哲学科研究室です』の永井玲衣さんもすごい。


nagairei.hateblo.jp

時折読み返してはうわ言のように「ぁ…うあぁ……」と呻いている。なんなんだ、この文章たちは。
たぶん、そこに男女の性別を持ち込むこと自体ナンセンスなのだろう。だが、なんとなく昔から、小説に関しても女性のほうが好きな作家さんが多かった。恩田陸にはじまり小川洋子川上弘美山田詠美山崎ナオコーラ三浦しをん川上未映子津村記久子綿矢りさ……。もちろん好きな男性作家も数多くいるのだが、か細い指先でつつつ、と琴線をなぞっていたかと思えば勢い、虹村億泰のザ・ハンドよろしく「ガオン」という効果音とともに心の臓を削り取られるようなあの感覚は、彼女たちの文章でしか得られないものである。それらは、奇を衒った洒脱な文体以上に、不思議な色気に満ちている。

好きな女性作家にその名を挙げた山崎ナオコーラさんは確か、自身のエッセイ小説『指先からソーダ』で「書店の棚で本の並び方が、出版社別になっていることや作家の五十音順に並んでいるのはわかるが、男性作家と女性作家で区別されるのだけは意味がわからないしやめてほしい」という旨のことを書いていた(はず)。そりゃそうだ、と思う(そもそもそんな並びをあまり見たことがない)一方で、男性と女性が書く文章は明らかに纏っている空気が違うとも思っている。だが、山崎ナオコーラさんは自分の作品にも「女性が書いたもの」という目線を持ち込まれたくはない、と言っている(書いている)。書き手からするとそういうものなのかもしれないが、一ファンとしてそれは難しいことだなと頭を抱えている。登場人物の言動、心象描写、風景の切り取り方にも書き手の性差は否応なしに出てしまうものなのではないだろうか。もちろん、読んでいる最中にそれを意識することは基本的にないのだが、やっぱり、男性にしか書けない文章、女性にしか書けない文章はそれぞれ在ると思う。

 

しかし、よくよく考えてみれば、女性たちは「文章を書く」ことについて男性よりも慣れ親しんできているんじゃないだろうか。彼女たちが授業中にめちゃくちゃ緻密に折りたたまれた手紙を回していたり、尋常じゃない速度で携帯のメールを打ち込んだりするさまを、僕ら男子は目の当たりにしてきているではないか。キモがられないように嫌われないようにと推敲に推敲を重ねた気持ち悪いメールを送った直後に絶妙な長文メールが返ってくると、もしかして迷惑メールに誤送信して自動返信が返って来たのか?と慌てたりしていた。

男子と女子のメールの場合、男子があーでもないこーでもないと返信にもたついている間に彼女たちはどういう文面が来るか予想して——ある程度汎用性の高いテンプレート的な——メールを用意していたのかもしれない。しかし、女子同士のメールだとどうだろう。想像の範囲でしかないが、それはもうセレーナとビーナスのウィリアムズ姉妹対決ばりの高速ラリーが繰り広げられていたのではなかろうか。

ここで培われる能力はきっと、文章力など以上に観察力なのだろう。よくもまぁそんなにも書くことがあるな、と感心するが、見過ごしてしまいそうな日常の些末な物事を掬いあげて言葉にする行為は、まさに永井さんの言うとおり「世界を適切に保存すること」だ。そもそも、その行為を表す「世界を適切に保存する」というどこかたどたどしくも生真面目な表現そのものが素敵だ。

 

本当は僕の日常にだって、魂が小さく震えるような瞬間がたくさんあるのだ。その尊さというか愛おしさというか、もっと言えばそれを「失いたくない」という気持ちが薄れていたような気がする。自分が見聞きしたもの、経験・思考したことをもっと大事にしていかないとな。「自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ」と叱責してくれるのもやはり、一人の偉大な(女性)作家である。そして、「感受性を守る」というその作業は、自身の中にある文章の性差における劣等感を脱ぎ捨てるところから始まるのかもしれない。

21世紀の(日照らない)都に雨が降る

京都のよく行く喫茶店に久々に来ている。「よく行く」のか「久々」なのかよくわからない状況ではあるが、そんなことはどうでも吉田類。いつも腰掛けるテーブル席に通され、コーヒーを注文する。カップの中の液体が空になり、タバコを3本消す間に、4人掛けのテーブル席には様々な人々が座り、コーヒーを飲み、席を立つ。明日行くボロフェスタに出演するバンドのドラマーさんとぽつぽつ言葉を交わして、ライブへの楽しみを増幅させる。

雨足が強まってきた。隣には若い男女が向かい合わせで座っている。男が延々、コーヒーについての講釈を垂れている。彼が着ている黒いタートルネックや褪せたジーンズやボロいスニーカーも相まって、とても芳ばしい。舌ったらずの女にジッポーの仕組みを解説している。まるで、ジョブズiPhoneの新作を発表する時のように饒舌である。俺は愚かで腹が減っているので、ハンバーガーが食べたくなる。

村上春樹の『遠い太鼓』を読んでいる。ひとり村上春樹を喫茶店で読むという行為の芳ばしさを隠すようにしてブックカバーを付けている。しかしこの小説(旅行記/日記)の面白さはすごい。奥さんの口ぶりは村上フィルターを通して、どうしても緑や208、209、青豆で再生されてしまう。或いは、彼女たちの口ぶりが村上夫人に寄っているのか。どちらでもいい。

東京の友人たちからテレビ電話がかかってくる。彼女たちが京都に帰ってきたらば、僕のIQは100下がるだろうな、と思う。一人で喫茶店にいるというのに、テレビ電話で話す。ずっとわーきゃー言っているだけで、会話にならない。愛おしいが、狂っている。

近々大学時代の親友が結婚する。彼女の彼氏(旦那さん)には一度会っているが、びっくりするほどの好青年で、本当にびっくりした。会う前にどんな人なのか聞くと「ずっとニコニコしてる」と言っていたが、しっかりニコニコしていたし、彼女もニコニコしていた。とても幸せそうで良かったなぁと心底思った。末長くニコニコ過ごしてほしい。

ずいぶん混んできた。グラスの水も無くなってしまった。雨は止まないが、濡れ細った街が綺麗なので外に出てみようと思う。

夏の闖入者、或いは檀れいの狂気性について

真夏のピークが去った。

 

そんな歌い出しの曲を聴く間もなく、コンビニのビールの棚が赤黄色に染まり始めた。季節の移ろいを冷ケースの前で感じるというのは酒飲み特有の風情かもしれないな、と思いながら隣の棚の99.99に手を伸ばす。サッポロのチューハイ事業部に乾杯。

 

 

 



 

あの京都特有のねちっこく尾を引く暑さもどこへやら、僕は寝冷えして鼻をぐずらせ、老いた犬のような空咳で喉を嗄らしている。川床にもビアガーデンにも花火大会にも行かなかったが、季節は異常気象と共に訪れ異常気象と共に過ぎ去っていった。七月も八月も九月も、むせ返るような草いきれの残り香だけをあとにして遥か後方へ見えなくなった。「平成最後の夏」なんていう「分離派の夏」に遠く及ばぬクソヌルいキャッチコピーがつけられた今年の夏に、何か特別なことができたのかというとまあ、そんなこともない。ひと夏で二回徳島に行ったり(阿波踊りは本当に素晴らしかった)、夜通しでバチェラーを見たり(あんきらは本当にかわいかった)、川遊びをしたり(ZOZOスーツは本当はSWIMスーツだった)、そりゃあ普段より浮かれて過ごしたわけではあるが、そのひとつひとつが自分の人生に何か大きな影響をもたらす糧になったかと訊かれれば、答えはNOだ。刺激は一過性で、良くも悪くも後遺症はない。非日常だって結局、日常の延長線上にある。

だというのに僕はまだ、興奮が冷めやらないでいる。次の季節がやって来たというのに、未だに頬を上気させ、肩で息をしている。それはおそらく、夏の闖入者たちのせいなのだ。

 

社会人というのは、一般的になかなか友達ができないものらしい。試みに、検索窓に「社会人 友達」と入力すると、二番目に「社会人 友達いない」との予測ワードが出てくる(一番目の「社会人 友達づくり」はより具体的な方策を求めている感があり、切迫した状況にあることがうかがい知れる)。自分自身、飲み屋で初めて知り合った人と仲良くなることはしばしばあったもののそれっきりになることも多く、密に「友達」と呼び合えるような関係にまで仲が深まることは少なかった。はずだったのである。

 三条京阪駅からほど近くの路地裏にある珍妙なカフェバーに入り浸るようになるうちに、あれよあれよと知り合いが増えていった。知り合いはやがて友達になり、友だちは新たな知り合いを呼び、その知り合いがまた友達になった。んん?友達ってこんなにサクサク増えるもんだっけ??

 

<先輩/後輩>のような、暗黙のうちに互いが了承しあう明確な関係性がある相手とのコミュニケーション能力を研ぎ澄ませていった結果、会話における「構文」が存在しない<初対面の同年代>が苦手だと自覚したのは大学生になったばかりの頃だったと思う。自分の高校からは一人しかこの大学に進学しないということは知りつつも、てやんでぇこちとら生粋の転勤族、対ストレンジャー的視線には慣れっこでぇと高を括っていた。

大学は僕の想像以上に広かった。こんなにたくさんの人間がいるのに、どこにも知った顔がない。そしてすぐに自分の誤りに気がついた。高校のように固定のクラスがない大学において、ほとんどの交友関係は流動的であり、あらゆる授業でほとんどの人間は初対面なのだ。つまり、完成したコミュニティに放り込まれることによって何の努力もなしに好奇の視線を独占できるあの「スター状態」が訪れないのである。サークルというコミュニティに飛び込むことで、先輩たちに可愛がってもらい難を逃れることができたが、以来見知らぬ同年代への恐怖心が拭えずにいた。都会(まち)の人ごみ肩がぶつかってひとりぼっち……笑いかけても誰にも届かない、微笑みの不発弾である。

 

 

 

珍妙なカフェバーで仲良くなれた人びとは皆、純粋に変な人たちだった。メンツだかめんつゆだか知らんが「今日濃すぎww」みたいな歪んだ友達讃歌に興じたいわけではない。血液が10倍濃縮のめんつゆなんじゃないかと勘繰りたくなるぐらい、ただただ「変な人」たちなのだ。ただ全員に共通して言えることは、圧倒的に「我」を出すことである。好きなものは好き!おもしろいものはおもしろい!知りたいものは知りたい!という普遍的な好奇心を360°全方位にぐ~んと伸ばしており、そのメンタルを具現化すればおそらくアルゼンチンの国旗の真ん中のヤツに等しい造形になる。

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周りがそんな人たちばかりだから、ノセられてついついこちらも「我」を出したくなる。それが例え人様にお見せするほどの「我」ではないとしても、だ。同じアホなら踊らにゃソンソン的なAWA VIBESである。卵が先か鶏が先かみたいな話だが、環境と自分は相互関係的に変わっていく。間違いなくきっかけは京都に住み始めたことだし、そのきっかけをつくったのは自分自身の変化とも言える。

9月の終わりも終わり、その変な友達のひとりと飲み歩き、今年の夏のアブノーマルっぷりについて振り返った。後半にかけてほかの変な友達とばったりエンカウントを果たしたことなどで盛り上がり、何を話したのかとかはあまり覚えていないのだが、檀れいが出てくる一見微笑ましいCMから醸し出される狂気についての話でふわっと盛り上がって、不覚にも平成の終わりやなぁ~~とダサい感傷に浸ったのだけ記憶にこびりついて嫌な気持ちである。

 

変化した自分自身と変化した環境とに両手を引かれ、今まで見たことのないもの、聴いたことのないもの、行ったことのないところに触れられた(見なくていいもの、聴かなくていいもの、行かなくていいところもあったのかも知れない。だが、僕がそれについて正確な判断を下せるようになるのはまだ少し先のことだ)。それは長く短い祭りのようなものだった。遠くで珍妙なお囃子が聴こえるのは、きっと耳鳴りに違いない。

今死んでしまったとしたら、走馬燈がほとんどこの夏のハイライトで埋め尽くされてしまう恐れがある。来年はもうちょっとチル重視の夏を過ごそうか。その中で少しの狂気を感じられるような、ひと言で言うなら……そう、「金麦の夏」を。