好き嫌いの話(後編)

好きな人やものがたくさんあるように、嫌いな人やものもたくさんある。

世界の半分は無関心でできているとして、もう半分の関心ある諸々はすべて好きと嫌いで二分される。
うら若い女性のスラっと伸びた指が映える右手は好ましいがガタガタの爪先がのぞく爪噛み癖の上司の左手は嫌いだし、だだっ広い海岸線を臨む防波堤に腰掛けて屁を放る爽快感には得も言われぬものがあるが、野球中継を見ながらビールをちびちびやりつつ破裂音とも不発音ともとれぬ曖昧な「バスッ」を発する親父の放屁ほど勘にさわるものはない。

世の中のあらゆる提言が半分アタリで半分ハズレであるように、「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉も例に漏れず半分アタリで半分ハズレだ。
「嫌よ」と言っている以上、嫌なものはイヤなのは周知の事実である。実際問題、「嫌よ」の嫌は「嫌い」の嫌であり、2000種類超ある常用漢字の中でも「嫌」という字に込められた意味のあまりのネガティブさには、一種の同情さえ禁じ得ない。
とはいえ、先ほどの他人の手や放屁の例で示したように、好きと嫌いは紙一重であることもまた真理だ。少年は好意を寄せる少女に嫌がらせをしてしまうものだし、いがみ合っている少年に少女が密かに恋心を持ってしまうというのはマーガレットの王道パターンである。

よくよく考えてみれば、人が人に対して好意や嫌悪感を抱くことは非常に複雑なことである。
例えば食べ物の好き嫌いはその「味」に理由があり、本や映画の好き嫌いはその「おもしろさ」に理由がある。言わばそれぞれに万人に通ずる好き嫌いの「絶対的な」評価基準が備わっているのであり、カレーが好きな理由に「味」以外の「色」や「温度」が挙げられることは基本的にはない。
対して「人」については好き嫌いの評価基準に万人共通の絶対的なものが無く、「容姿の美醜」を評価基準にする者もいれば「性格」を評価基準にする者もいる。もっと言えば実感として、人に対する好き嫌いにそのようなひとつの評価基準を持っているというのは少数派であり、多くは様々な要素を総合的に評価基準として設けているように思われる。
そのうえさらに「友達として」や「恋人として」のように、好意は対人関係別に分類される。こうなるといよいよ収拾はつかない。お手上げである。

こんなことを考えてるのは僕がまだ若いからなのだろうか。こんな毒にも薬にもならない(精神がなんとなくどんよりしてくるということを加味すれば毒にはなり得る)話をある友人としていたら、彼女はいっそクジャクになりたいと言った。クジャクのように、飾り羽の美しさだけで相手を好きになれたらこんな悶々とした想いをすることもないのに。

なるほどなと僕は思ったのだが、クジャクが飾り羽の美しさだけでパートナーを決めるなんて誰が言ったのだろう。その提言もまた、半分アタリで半分ハズレに決まっている。

好き嫌いの話(前編)

極々個人的な話をすると、珈琲がとても好きだ。

と言っても味の美味い不味いの評価基準は自分のなんとなくの好みや気分でしかないし、専門的知識が豊富なわけでもない、そもそも生得的(本質的には生失的)に匂いがほとんどわからないので、まったく「ちょっとした趣味」の範疇での話である。
とはいえ喫茶店はよく行くほうだし、長らく足繁く通う店もいくつかある。自分でもペーパードリップで淹れるし、豆や道具もそこそこ選んでいる程度には凝っている。月並みではあるが、いつか自分の喫茶店を開いてみたい、という少年おっさんのような夢もある。

珈琲の魅力を語るために、「珈琲の愉しみ方」の話をすれば、読みかけの本を読むだのタバコをふかしてみるだのテイクアウトしてなんとなく景色がいい場所まで自転車を漕いでみるだの、それこそ気分によりけりで、これはこれで広げてみてもおもしろいのだが、どうにも風呂敷を畳める気がしない。
「美味しい珈琲の条件」、これもまた同様だ。第一、そんな「条件」などといったある種の規定を語れるほどのご身分ではないし、生憎そんなゴッドタンも持ち合わせていない。
「珈琲に合う音楽」、これは少し良いかもしれない。しかしネックとなるのは好みのジャンルの違いだ。ドヤ顔で珈琲に合う曲を書き連ねても、そんなアーティスト知らないよ、と言われてしまえば途端にテーマが瓦解してしまいかねない、危うい話題だ。

そこで僕は考えたのである。音楽に知識差のネックがあるのなら、万人に知識差のない珈琲に合うなにかを、珈琲の魅力の語り口とすればよいのではないか。
そして思い至ったのが「珈琲に合う動物」である。

喫茶店やカフェの類の店にはなぜか、動物の名前が付いているものが多い、というのが僕の持論である。有名どころでは代々木公園のFUGLEN(ノルウェー語で「鳥」の意)や渋谷の名曲喫茶ライオン、大阪は阿部野橋の喫茶スワンなどが挙げられる。学生時代を過ごした京都にも、つばめだの魚だのキリンだの象だの、さまざまな動物の名を冠した喫茶店・カフェが数多く存在する。ヤギが赤い実(=コーヒーの実)を食べてラリってるのを修行僧が発見したというなかなかファニーな話が珈琲の起源の一説となっていることや、また最高級豆コピ・ルアクがジャコウネコのウンコから摘出されることなどから、珈琲と動物は案外イメージとしてリンクするものがあったりなかったりするのではないか、とも思っている。
ということで、以下に極々個人的な印象で珈琲に合う動物を列挙する。これで珈琲の魅力が伝わったとすれば、皆さんの想像力の豊かさに感謝である。

◎クマ
クマといってもなんでも良いわけではない。ベストはシロクマである。北極の寒さを連想させるので、ホットコーヒーととてもよく合う。ツキノワグマや、マレーグマなんかも、毛並み的に良い。パンダやグリズリーはちょっと違うのである。

◎カモメ
鳥類ではかなり珈琲に合う方だと言える。港を連想させるので、遥か異国の飲み物というイメージに結びつきやすいのかもしれない。つばめや白鳥も渡り鳥で、遠い海を越えてくる感じが珈琲に合う。原産国イメージで言えばオオハシやフラミンゴなんかもいい線いっていると言えよう。シロクマと同様の理由で、ペンギンもしっくりくる。

◎黒猫
とても良い。珈琲とよく合っている。なんなら喫茶店に居て欲しい。珈琲にここまで合うってのは、犬にはない魅力のひとつかもしれない。クロに限らずミケとか灰色の猫もいい。シャムキャッツとかは違う。百獣の王ライオンは老舗の喫茶店の風格を思わせるという意味ではドンピシャだが、その他の大型ネコ科はあんまり向いてないかもしれない。それこそジャコウネコは珈琲に合う動物筆頭株主スフィンクスという品種の猫もちょっとアリ。

◎オオカミ
イヌ科の劣勢のなか、孤軍奮闘するのがオオカミである。シンプルにそのクールな出で立ちは珈琲のイメージとマッチしているが、それ以上に「一匹狼」の言葉のとおり、群れることなく我が道をゆくその様はまさにコーヒーを嗜むオトナの男のよう。その姿に憧れて、背伸びしてただただ苦いのを我慢しながらブラックコーヒーを飲んだ中学生のあの頃を彷彿とさせる。

ツノのある鈍い大きい動物すばらしい。珈琲の癒しの香りとエッジの効いたほろ苦さのイメージとマッチしている。ヌーやバイソンも、鈍足ではないがストロングスタイルの珈琲のようで、かなり似合う。水牛なんかはとてもベトナムコーヒーの香りがする。また、トナカイなんかはコーヒー大国であるノルウェーフィンランドスウェーデンの北欧三国を想起させる、めちゃくちゃ珈琲に合う動物の1匹である。

◎バク
珈琲に合う動物第3位。「優しい目をしたのっそり動く動物」という、バファリン以上にやさしさだけで出来てるような生き物。カフェインによる眠気覚ましの作用と、夢を喰うというバクにまつわる伝承とのコントラストが絶妙である。同じようなフォルムという枠で、サイとカバも珈琲に合う動物に挙げたい。

◎ゾウ
珈琲に合う動物第2位。陸上生物で最高に珈琲に合う動物である。膝がガサガサな感じとか、けっこう賢くて芸もできるとことかとても良い。ツノではなく牙があるところもまたよい。京都の路地裏の名店、elephant factory coffeeは秀逸な命名である。余談だが、ゾウはジャンプすることができないらしい。この雑学とも豆知識とも付かないゆるさが非常に愛おしい。

◎クジラ
珈琲に合う動物堂々の第1位。クジラが好きだから1位なのではない。珈琲にここまで合うから好きなのだ。海中哺乳類的なのっぺりしたフォルムは、焙煎したての艶やかなコーヒー豆を想起させ、その生態や個体同士のコミュニケーションなどの生物学的な謎の多さは珈琲という飲み物の奥深さを思わせる。ドリップの際にモコモコと湧き上がる泡だって、クジラの潮吹きに見えないこともない。海洋哺乳類という点で言えばマナフィとかも良さげ。あとは語感でスナメリも推したい。「スナメリコーヒー」って喫茶店ありそう。


以上、極々私的な「珈琲に合う動物」でした。ちなみにヒトは全然、珈琲似合わねぇな。

春眠、見た夢を覚えず

人工的な暦で三月を迎えて二週間、ようやく季節の移ろいを感覚として感じられるようになってきた。
カレンダーをめくって現れた数字を見て「もう春か」と思っていたのもつかの間、いつの間にか寝起きのフローリングの冷たさが和らぎ、マスクの意義がインフルエンザ予防から花粉対策へと変わり、午後の陽射しに欠伸が止まらなくなり、気づけばすっかり春の只中に居ることを知る。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、この甘ったるい眠気は社会生活を営むうえで非常に迷惑ではあるが、また幸福でもあるのはおそらく天国に一番近い季節だからなのだろう。ヨーロッパの聖堂などによくある絵画に描かれる天界の様は、花が咲き乱れ鳥が唄う、春そのものの景色である。

同時に春の色香は蠱惑的である。ある種の悦びを湛えたこの開放的な陽気は、動物たちを冬眠から目覚めさせ、生命活動を活性化させる。人間も等しく活性化させられ、蕾が綻びて中から花弁が零れるように、各々の内内に秘めた欲求の箍をはらりと解き、春を「恋の季節」たらしめる。根源的な部分で言えば、偏に川辺で盛る鴨の番と何ら変わらない。
「恋の季節」に収まっているうちはまだ良いが、悪魔的とも言える春のテンプテーションは人々を惑わせ、街に変質者をぬらりと産み落とす。よもやバーバリーも自社のスプリングコートがこんなにも裸を覆い隠して出歩くのに適しているとは思いもよらなかったことだろう。

春の気色は様々な感度を昂らせるのだろう、出逢いや別れの期待、不安、感傷もすべて、不思議と他の季節以上に押し寄せてくる。
たぶん、僕たちはみんな春という夢を見ている。脳を発達させ、独自の進化を遂げてきた人間は、冬眠するかわりに春眠するのだ。浮ついた気持ちも、どこか心許ない足元も、すべて春の夜の夢の中だからだ。いつまでも夢の中に居たいのだが、やがて暖かさは寝苦しい暑さにかわり、春眠に堕ちた時と同じように、知らぬ間に春眠から覚めるのだ。そこには世界を濡らし、焼き尽くす夏がある。

電車に乗っている。となりの席ではサラリーマンがiPodを聴きながら鼻唄を歌っている。上手なのだが、その歌を僕は知らない。通過した駅のホームに佇む、矢羽根文様の着物を着た女子大生を見た。卒業式終わりで、これから追い出しコンパなのだろうか。彼女もきっと、帰りの電車で泣くのだろうか。

鈍色のうみ

ちょうど一年くらい前に明石に降り立ったのもこんな雨の日だった。
暦は三月、典型的な三寒四温の真っ只中であり、昨日までの少し汗ばむくらいの陽気が嘘のような肌寒さである。仕事で何度か明石に来たことはあったが、こんな雨降りの日に来たのは入社直前ギリギリまで放ったらかしにしていた自動車運転免許取得試験を受けるために、眠い目を擦りながらしぶしぶ足を運んだ大学四回生の三月以来だ。ひと月ほど前には教習所を卒業していたにもかかわらず何故そんなに引き延ばしていたのか、免許を取ってしまえば社会人になる資格が揃う(弊社では募集要項に「普通自動車運転免許を取得していることが望ましい」と書かれていた)ことになる、そうなると楽しかった学生生活からの卒業を否応なく実感しちまうからヨ…などという理屈は少しもカッコがついていないし、実際のところただただ面倒臭かったというのが八割方であり、いよいよ全くもってカッコよくない。

唐突に、ごくごく自然に書き出したが、最初の更新からちょうどほぼ一ヶ月ぶりの更新である。物事を始めるにあたって自分はかなりの臆病者なので、見切り発車はしたくても踏ん切りがつかない。
今回もはてブロをやろう、コラムをやろうと座ったまま思い、思い立つまでに丸三日を要し、実際に開始するまでにいくつかトピックを下書きに準備しておいた。無論、ネタ切れしたり更新するのが億劫になった時のための保険である。
初回の記事を更新後、一週間ほど俄かに仕事が忙しくなった。もうこの時点でなかなか面倒くささが首をもたげていたのだがそれ以前に、仕事がひと段落した後いざ書こうと思いきや文章の書き方がわからなくなっていた。もっと言えば、言葉を組み立てたり意味をつなげたりする頭の使い方がわからなくなっていたのである。こうなるともう脳がはてブロの編集画面を開くのを拒絶し、しばらく通勤中はずっと花札アプリをやっていた。混雑していく車内で、ひたすらこいこいをし続けた。

とはいえやはり心地の悪さは残るもので、どうにもはてブロが気になる。週二で更新と大見得を切ったことも相まって、体裁が気になるのは哀しき人の性である。しかし考えはまとまらず、記事を書こうにも書けないので、tumblerで愛読していたアカウントの更新を読み読みリハビリをはじめているのが現在である。彼の文章は明解で淀みなく、それでいて言い回しに諄くない程度の色があって、こんな文才があればなぁといつも思う。
面倒くささに飼い慣らされちゃいかんなぁと、またも明石の地で感じた。

今、明石から引き返す電車に乗っている。さっきトンネルを抜けた先に広がる須磨海岸を観た。依然として鉛色の空が広がっていて、海もそれに応じた穏やかな鈍色だった。

ぼくがはてなブログをはじめた理由はだいたい1個ぐらいあって

ひとつめはブログというか、コラムを書きたいなと思ったこと

去年の春から、大きくも小さくもないけど分不相応に大きいビルの中にある広告代理店で働いていて、始業時間までの15分くらいで「勉強」という名目を羽織りながら、TCC(東京コピーライターズクラブ)のリレーコラムを何とはなしに読んでいました。

TCCはその名の通り、東京を中心に活躍しているコピーライターの集まりで、リレーコラムはそのTCCのサイト上で公開されているコンテンツです。TCC会員のひとりが(原則)月〜金の5日間コラムを書いて、また次の週べつの人にバトンタッチしてコラムを書いていく…という形で更新されています。
内容は様々ですが、傾向で言えば
「若い頃はこんなことでこういう失敗して怒られたけど、それってこういうことだったんだなぁって。そんな経験のおかげで今の(デカいプロジェクト動かしてるor独立して成功してる)自分があるんだよなぁ〜〜もちろん今でも毎日大変だけど周りもすげぇリスペクトできる人ばっかでホント刺激受けまくり、広告業界サイコー!」
的な内容が各々の仕事哲学を交えながら語られているのが大半と思っていただければ。

そんな華やかでめまぐるしいトーキョー広告マンストーリーを流し読みしながら想像してみるのですが、大抵20時〜21時台には退社できる地方都市の新卒サラリーマンの生活とはかけ離れすぎていて、彼らの世界とはとても地続きとは思えないというのが正直なところです。
もちろん、東京には大企業もマスメディアもインフラも集中していて、仕事ひとつひとつの予算も桁が2つくらい違うというのは至極当然の話です。でも、その大前提としてある「大企業もマスメディアもインフラもなんでもある」という環境が完全に「別世界」なわけで、もはや扱っている商品が、持っている武器が違うんだなぁと途方に暮れてしまいます。

その中でコピーライターという職業だけは、言葉を武器にしているのです。
「コピーライター」という職業を知ったときから、教育を受けていれば誰でも等しく持っている「言葉」をどうして売り物にできるのだろう、と思っていました。
小説家や詩人、脚本家といった人々も言葉を武器にしますが、彼らの活動の根底にあるのは「表現」であり、基本的には自分の芸術などを創りあげることを目的としている、と思います。
広告活動は原則として「もの・サービスを売る」ことがベースに在ります。そのためにCMやポスターを作り、それをどの媒体に載せて発信するかを選定するには専門的な技術や知識が必要ですが、そこに挿入される言葉(キャッチコピーにせよボディコピーにせよ)は、本質的には「もの・サービスを売る」ための言葉であり、実際にお客さんと対面してセールスするときの言葉と同様のものであるはずではないでしょうか。
だとすれば、なぜ「広告」における言葉には専門職としてのコピーライターがあり、商品を実際にセールスするための言葉には専門職がないのだろう、広告表現における言葉とはなにがそんなに特別なのだろう、ということをぐるぐると考えるようになりました。

ひとつ思い至ったのは、広告は「自分」という枠の外にあるもののための言葉である、ということです。
小説も詩も脚本も、その構想や世界観、思いの丈はすべて(多かれ少なかれ外界からの影響を受けていても)自分の中から出てくるもので、言葉はそれを表現するために用いられるものです。対して広告は、自分の感情や心の外にある「他者」としてのものやサービスのために言葉を用いるものです。
つまり、「他者のための言葉」を理解することが広告におけるコピーを理解することに繋がるのではないか、と考えました。

経緯が随分と長くなりましたが、今回僕はコラムを書きたいと思って、はてなブログのアプリをダウンロードし、ユーザー登録を行い、このブログを立ち上げました。実際の定義は知りませんが、感覚的にブログは自分の経験したこと、その上で思ったことを書き連ねる、材料も調理も自分の中にあるものでおこなう表現だと思っています。僕がしたいのは、自分から湧き出るものだけじゃなく、自己の外にあるものをも材料にして自分で調理をおこなうコラムです。コラムを書くことは広告を書くことに近いのかなぁ、全然近くないのかなぁ、とか思いながら週に2、3日くらいのペースで、これから書いていきたいと思っています。

いきなりえらい長くなっちゃったな。
とか思ったけど、実際公開してみたら全然たいしたことなかった。終わりです。