誇れる女の行進

「例えば、どうしようもなく苛立ってる女の子がいるとするでしょ。その子に対してどう接してあげるべきなんだと思う?」

カオリはフォークをくるくる回してスパゲッティを絡めたりほどいたりしながら僕に聞いた。

つい20分ほど前、突如として「ここ、相席、いいかしら」と僕の向かいの椅子に座り、イカのジェノベーゼと白ワインをボトルで注文した女は、今こうして僕の核心に触れようとする質問をしている。何故こうなったのかはわからない。わかるのは「理屈じゃない」ということだけだ。彼女は気の赴くままに僕に問いを投げかけている。そして、僕は僕で、自分でも理由の分からぬままに、その問いに対して真摯に答えようとしている。見ず知らずの、今しがた出会ったばかりの彼女の問いが、何故か僕の胸に楔のように突き刺さったのだ。

 

カオリと名乗るその女は、都会的な顔立ちをしていた。とびきりの美人というわけではないが全体的に整っており、やや濃いめの化粧も、大人の女性らしい品のある印象を与えている。青のストライプのワイシャツにはしっかりとアイロンがかけられていて、シワひとつない。切り揃えられた前髪の下から覗く、何かを見透かしているような瞳に口が乾き、思わずワインで唇を湿らせる。

彼女の問いに、経験は少ないながら、僕が今までに付き合ってきた女の子に対してどう接してきたか思い起こした。

高校生のときに交際を始めた最初の彼女は、生理の症状が重たかったらしく、その度に決まって不機嫌になった。僕は喧嘩や言い争いが本当に嫌いな性質だったので、そんなときには必ず距離を置くのだった。

数週間前に別れた彼女も、機嫌の良し悪しがわかりやすい人だった。虫の居所が悪い時は、マカロニサラダを作ってフォークでマカロニをいくつもグサグサと突き刺して憮然として食べるのだった。そんな彼女に対しても、僕は黙って嵐が過ぎ去るのを待った。それが最善の方法だと信じていたわけでもなく、僕はただそうすることしか出来なかった。

 

僕が答えに詰まっていると、カオリは

「あなたって、きっと波風を立てるのが嫌な人だから、そっと距離を置くタイプだったんでしょうね」

と哀れむように言った。

「そのとおり」

僕は苦笑しながら白状した。

「昔からそうすることしか出来なかった。慰めてやることも、話を聞いてやることも試してみたけれど、彼女たちが満足できるような答えも出せなければ、気の利いた相槌を打つ器量もなかった」

ウェイターが僕らのグラスに水を注ぎにきた。ごゆっくり、と微笑んで去って行く彼を見送りながら、カオリは

「あなたの肩を持つつもりはないけど、人によっては放っておいてほしいという子もたくさんいるわ。そういう意味ではあなたの方法も間違ってないのよ、きっと」

と言った。

「だけど、待つだけっていうのはやっぱりアイデアが足りないわね」

「じゃあ、君は、何が正解なんだと思うの?」

そうやってすぐ『答え』を聞こうとするのがイヤなのよ。と吐き捨てる、不機嫌な顔をした数週間前の彼女が脳裏に浮かんだ。

「正解なんて無いのよ」

カオリは空になったワインボトルのラベルを爪で剥がしながら呟いた。

「だけど、あなたの言う『正解』に一番近いのは、『許す』ことよ」

皿の上には丸まったスパゲッティが所在無げに蹲っていた。

思夏期のころ

小説にせよ個人のブログにせよ、人の文章を読むということは自分にとって実りの多い趣味のひとつだ。

文筆家による書籍やライターによるコラム・インタビュー記事などはもとより、表現の場においても誰もが気軽に文章を書き、公に発信できるプラットフォームが整っているおかげで、たまたま目にした顔も知らないような人の文章にもドキッとさせられたりするような素敵な世界だ。

改めて口にするまでもないことではあるが、そういう場としてのブログはとてもおもしろい。

 

ブログを書くことは億劫だ。

誰がこうしろと言ったわけでもないが、暗黙の了解としてブログの読み手は「日常、その他周辺の由無し事の記録」的役割を想定してしまうので、必然的に書き手も自分で設定したテーマ(≒タイトル)に沿ったそれ相応のボリュームの文章を、と腹部は臍より少し下あたりの丹田に力を込めてブログを書いてしまう(そもそも、ひと言で済むような刹那的な発言をしようとブログを始める人はかなり珍しいのではないか)。

だが、その面倒くささを抱えてでも書きたいことがあるから、人はブログを書く。そんな熱量のある文章は、どんなくだらないトピックであろうが読んで実りがないわけがない。

 

最近、身の回りの友達もぽつぽつとブログを書く人が増えてきた。見ず知らずの他人だからこそおもしろい文章もあるが、書き手の人となりをよく知っているからこそおもしろい文章もある。

自分のブログを読み返すと、よくもまぁこんなどうしようもないことを恥ずかしげもなく書き晒したものだとうんざりすることが十中七億ぐらいの確率であるが、案外友達も皆、僕と似たり寄ったりなどうしようもなさに溢れたことを書いているものだ(ごめんね)。

それを読んで、そんなもんだよなと笑ったり、あんなによく喋ってたのにその実苦しんでいたということに気づいてあげられてたのだろうかと悲しくなったりする。

友達の、今まで感じられなかった熱量にあてられる。その感覚が愛おしい。

 

遠い昔に思春期を終えたはずなのに、今でもみんなくるくるもがいたり、ぼんやりつまずいている。大人になったら好き嫌いなんか無くなってなんでも食べられるようになると思っていたのに、大人になるにつれ嫌いなものが増えてしまった気がする。ひとつうまくやり過ごせることが増えるたび、ひとつ何かがヘタクソになる。

こういうもの煩いや鬱屈とした気持ちの動きに「思春期」だなんて恥ずかしい名前をつけて、春という季節に閉じ込めた先人はズルいな、と思う。

季節は地続きだ。歳をとれども悩ましい思いが尽きることなどあるはずもない。

 

先日、24歳になった。

その一日で変わることなど何ひとつない。23歳最後の夜に浴びるほど飲んだ酒も、24歳最初の朝に二日酔いというかたちでしっかり引き継がれていた。

孔子は「四十にして不惑」と言った。

アホか。不惑などそれこそ人間の終わりだ。

いつまでも惑わせろ。

俺はまだ思夏期に入ったばかりだ。

七夜十一夜物語(side-A)

年が明けてから初めて、土日を「連休」として迎えられる。

平安神宮での2日遅れの初詣で商売繁盛を願った憶えはないのだが、なかなかに不穏な予感を禁じ得ない年始である。そんなことより待ち人はどうした。来ずか。来ずなのか。

 

久々の土日休みとはいえ落ち着きのない性分が災いし、どうにも家でゆっくり過ごすということができない。

今日もすっかり夜更けまで、京都の魑魅魍魎たちと楽しく過ごした。

 

遠出や遊びに行く用事がない日でも、ふらっと近所の浜辺を散歩したり、自転車で好きなコーヒー屋に行ったりするようにしている。何の用事もなく外を出歩くことは、自分にとってリフレッシュ以上の意味合いがある気がする。じゃあ、何の意味があるのかと言われても、わからないけど。

 

23時過ぎになると、電話が鳴る土曜日がある。

「起きてる?徘徊しよう、徘徊」

と言って連れ出してくれるご近所さんの友達がいる。一応面倒臭がってみせるが、終電も気にせず夜の空気を吸える喜びにソワソワしながら、二人で自転車でコンビニへ行くのが好きだ。

行くのはだいたいローソンかファミマで、連れ出し賃として友達は缶コーヒーを奢ってくれる。お礼に、とタバコを一本差し出す。

冬の夜のパキッとした空気を、友達とその彼氏の穏やかな恋の話とホットの缶コーヒーが溶かしてゆく。

恋の話、将来の話、人生の話。

いろんな話がぷかりと浮かんでは、タバコの煙と一緒に夜空に消えてゆく。

 

コンビニ、信号、街灯とマンション。ときどき通る車のヘッドライト。1ドルの値段もつかないこのベッドタウンの夜景が、暮らす人々の人生を照らしている。

 

終電車に揺られている。

駅からの帰り道、久しぶりにセブンイレブンに立ち寄ろう。

0ドルの夜景は僕の人生も照らしてくれる。

そうしてまた少し安心するのだろう。

気持ちの葬式

僕が愛して止まないロックバンド くるりは名曲「ハローグッバイ」で、

この気持ち説明できる言葉も覚えた

と歌った。

 

「嬉しい」だの「寂しい」だの、気持ちを一言で表す言葉はいくつもあるが、どの言葉もその時々で感じた心の機微を語り尽くすにはあまりに足りない。

自分の心と向き合い、目を背けたくなるようなぐずぐずに膿んでしまった部分も直視し、広大な海から言葉を掬い上げて並べていくような作業を経て、彼は「この気持ち説明できる言葉も覚えた」のだろう。

余談ではあるが、三浦しをん著「舟を編む」の中で出てくる、「恋」という気持ちについての表現はとても良い。

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そういう真摯な気持ちで、この一年は言葉に向き合ってこれたのかもしれない。

はじめに掲げた週2〜3というペースには遠く及ばないが、かれこれ一年くらいはブログを続けてこれた。

しかし、「あ、いまブログを書きたいな」と思った心の動きをそのまま真空パックして、言葉を拾い集め並べていく作業は非常に難しく手間がかかるものだった。

なんとか頑張って月一ペースの更新というアベレージは保てたものの、かなり体力を要するものだと感じた。

ただ、言葉にできた気持ちは、その感情のネガポジに関わらず、成仏していったような気がする。

 

自分の気持ちを書き留めるということは、心の整理であり、ひとつの弔いのようでもある。

とても煩わしく、頭の疲れる、そして心地の良い葬式だ。

どの気持ちも皆、天国へゆける。

 

この一年で、葬式を挙げられなかった「気持ち」もたくさんある。

そんな「気持ち」の亡霊たちで、少しだけ肩が重い年末だ。

その間にも次々「気持ち」は僕の中に浮かびあがり、窓を開けて、天国へのドアを叩こうとする。

来年もまた、ゆっくり時間をかけて弔ってやろう。

 

 

 

パンを焼くという儀式について

我が家に新しいオーブントースターが来たのは夏の暮れで秋のはじまり、かれこれもう3ヶ月近く前のことになる。

 

スグリーンと言うべきかミントグリーンと言うべきか、なんとも形容しがたい「緑っぽい」色合いと、電化製品らしからぬ丸みを帯びたフォルムが特徴的だ。

詳しい性能のことはよく知らないが、毎日のトーストが美味しくなったと家族はえらく重宝している。

確かに、その日以来パンを齧るときの「ザクッ」が小林聡美のそれに近づきつつある気がしないでもない。

 

「料理」の定義を、切るだのかき混ぜるだの熱を加えるだの、食べられない状態(大きすぎる、美味しくない、毒がある など)から食べられる状態(食べやすい、美味しい、安全に食せる など)にする行為を施した食材、と仮定するのであれば、トーストは最も簡単な「料理」のひとつと言えよう。

オーブントースターに食パンを放り込んでタイマーをセットするだけという、簡略を極めたその行為は、調理というより作業に近い。

 

デザインや性能が変われど、トースターに対して我々が期待する役割はひとつ(同時にとてもシンプルである)、美味しくパンを焼くことであり、それ以上でも以下でもない。

 それに応じるように、彼らトースターの姿は美味しいパンを焼くのに適切な形状・機能を有しており、うちの新しいトースターも例に漏れず、彼に備わった機能を適切なかたちで「美味しいパンを焼く」という使命を果たすべく黙々と(時折「チン」と誇らしげな合図を鳴らし)行使している。

 

 我が家の朝食はほぼほぼパン食である。

時々ご飯、若しくは菓子パンやコーンフレークなど、トースターによる「調理」を介さず食べられるものも儘出てくるが、大抵はピーナツバター、或いはアオハタのブルーベリージャムを塗ったトーストを食す。

 

こうした一日の始まりのルーティンは、イチローの朝カレーほどの意味合いも生産性も無いが、ある種儀式的である。

目が覚めて、スリッパを履き、顔を洗い、口を濯ぎ、食パンをトースターに置き、ツマミを捻る。

別に願をかけているわけでも無いが、トースターの窓を開いて焦げたトーストが出てくるとなんとなく不吉な予感がしてしまう。

下駄の鼻緒が切れたとき、太陽に虹の輪がかかるとき、黒焦げのトーストが出てきたとき。

 

食パンひとつ満足に焼けない自分に辟易してしまう、そんな日もある。

でも、誰だってなにかを失敗する。

そんな日もあるのだ。たかがそんな日だ。

 そんな一日の始まりには、ザクザクと焦げたパンを齧り、ミルクコーヒーで飲み下すのだ。

パンを焼くような単純なことすら失敗してしまう僕たちだ。

世の中に溢れる複雑な由無し事、失敗して当然だ。

 

どうか、僕が、僕の失敗を許せますように。

そんな祈りを込めてツマミを捻る。

トースターが「チン」と音を立て、窓を開けて見るまでパンがうまく焼きあがってるかどうかはわからない。

シュレーディンガーのパン、と言うには些か大袈裟な思考実験だ。

焦げていたら、いつもよりたっぷりブルーベリージャムを塗るのだ。

やがて哀しき前田ガールズ

人がブログを書く動機など、煎じ詰めれば所詮は気分だ。

ましてやオーディエンスのほとんどいない、極々私的なブログとなれば、詭弁だらけの理屈で塗り固めた忌憚のない話題を展開することができる。

 

そういう逃げ(恥だが役に立つもの)を前置きに語るのであれば、幸か不幸か僕には異性の友達が多い。

 

親族・親戚に女性が多いこと、

ファニーな見た目から第一印象として恋愛対象に入り難いこと、

好意を寄せるような相手には話し難いことも話せる原因不明の受け口の広さ

(以上三件、友人たち談)といった要因からこうした結果に至るわけだが、このことが自身の自由恋愛において良き方向にはたらいているとは今のところ言い難い。

 

なんせ仲良くなれる異性は皆、自分のことを友人として見てくれているわけである。ありがとうございます。

その結果として生まれたのが、僕のことを全く恋愛対象とせずに親しくしてくれる女友達によって構成されるプラトニック大奥、誰が呼んだか「前田ガールズ」である。

 

もちろんどんな男子にでも女友達は居て然るものだが、こうも皆のストライクゾーンから外れた位置に鎮座するドープネスがいるだろうか。席替えはまだか、マザファッカー。

いやむしろ、だからこそ皆友達承認をしてくれるのかもしれない。

「前田ガールズ」の話を聞くに、彼女たちは概して知り合って間もないうちに(恋愛対象として)アリかナシかの判断を下してしまうようである。実に分が悪い。

 

それはそれとして彼女たちの話は興味深い。

あまり公にはすべきでなさそうな産廃的トピックもしばしば、駆け込み寺がごとき僕の耳に持ち込まれる。

この状況、何かに似ていると感じ続けてきたが、ゲイバーのママに通ずるものがあるのではないかと最近思い至るようになってきた。

 

口癖が「あんたバカね」になる日も遠くないと思うと、零れ落ちる血の涙を禁じ得ない。

禁じ得ぬ血涙をグッと堪え、前田ガールズは随時メンバー募集中です。

あんたのお悩み、待ってるわよ。

君の名は(ギャンダマン)。

最近おかしな夢をよく見るようになった。

或いは、夢とはそもそもおかしなもので、起きた後までその夢を覚えていることが多くなった、と言ったほうが正しいかもしれない。

 

直近で言えば、ジャルジャルの後藤の一人称視点で、両腕を二匹のサソリに刺される夢を見た。

簡潔に言い過ぎて何がおかしいのかわからないという人のために解説すると、

①バラエティ番組でよくある「箱の中身はなんだろな?ゲーム」のようなシチュエーションではなく、普通の道端で刺されたこと

②何より刺されているのはあくまで後藤であるということ

この二点がおかしい。

 

 

他にもここ二週間ほど、ほぼ毎日いろいろな夢を見たが、今ではほとんど忘れてしまった。

夢と現実との決定的な違いとも言えるが、夢の記憶は記録しない限りほとんど定着しないように思っている。

残っているのは、おかしな夢を見たとき特有の、現実に戻るまでの寝惚けているようで覚醒しているような浮遊感だけである。

 

 

まさにちょうど二週間ほど前、映画『君の名は。』を鑑賞した。

タイトル通り、夢で入れ替わった相手の名を思い出せない高校生の男女をめぐる、若年性健忘症に警鐘を鳴らす良作である。

まさか『君の名は。』がここ最近のおかしな夢の原因とまでは思わないが、夢の内容は全く覚えていないのに謎の固有名詞だけを覚えているという逆パターンの夢をひとつ見た。

 

 

「ギャンダマン」という名前に聞き覚えは無いだろうか?

 

ない。僕は全くない。

夢は一種の深層心理などと言うが、「ギャンダマン」が僕のどういった心理を表しているというのか。

なんとなくだが、ロクなものを表していないような気がする。

 

ギャンダマンで検索したところ、それらしきものは見つからなかった。

代わりにビーダマンのガンダム版である「ガンダマン」がヒットしたが、バンダイには申し訳ないが僕の人生にガンダマンは今のところ登場していない。

 

辛うじて覚えているのは「ギャンダマン」という言葉が出てきた文脈だけで、

女の子(身近な人のような気がするのだが誰だかわからない)が

「ギャンダマンやないんやから」

と笑いながら僕に言ったのだった。

 

 

すなわち、僕の何らかの言動が、彼女の目には「ギャンダマン」のように映ったのだろう。

「ギャンダマン」が何者なのか、そもそも人物なのか、それすら真相は闇の中である。

しかしあの夢の中で、僕は彼女を笑顔にすることができた。

ただそれだけが揺るぎのない事実であり、彼女が笑い声をあげたその瞬間、僕は確かに、彼女だけのギャンダマンであった。

 

 

だけどギャンダマン、君にひとつだけ聞いておきたいことがあるんだ。

ゴッドタンって番組を君は知ってるだろうか?

テレ東のおもしろいバラエティで、最近しょっちゅうYouTubeで見てるんだ。

そのゴッドタンの看板企画で、キス我慢選手権ってのがあってね、その日も確か布団の中で、その企画を見てたんだ…

 

ギャンダマン、もしかして君は、僕が思ってるよりずっとロクでもないやつなんじゃないだろうか?

僕は、夢の彼女に何を言ったんだ?

今となっては何も思い出せない。

 

 

ただひとつ思い出せる、君の名は。