妹の消滅

近所にある小さなコーヒー屋さんでアイスオレを飲みながら本を読んでいると、女性二人組が店に入ってきた。彼女たちは僕の向かいの席に通され、和気藹々とメニュー選びに興じている。向かって右手の女性がお姉ちゃん、ともう一人を呼ぶ。どうやら姉妹らしい。本から目線をちらりと上げて様子を窺う。なんとどちらも美人だ。僕より少し年上だろうか。

美人姉妹というだけで、途端に本の内容が頭に入らなくなってしまった。目で追う活字をそっちのけにして、阿呆な脳みそは耳に入る彼女たちの声を処理してしまう。妹であろう女性の友達がベトナム旅行に持って行くカメラ選びに迷っているらしく、お姉さんが使っているソニーのデジカメを勧めたのだという。姉はそれを嬉しそうに聞いている。僕は同じ行を三回読んでいることに気づき、読書を諦めて煙草を吸いに店の外に出た。

 

僕には2歳年下の妹がいるが、兄弟姉妹という存在を、昔からきちんと認識できないでいる。

小学生の頃、しばしば母に「里佳子(妹)って“誰”なん?」と尋ねていた。もちろん、妹とはずっと同じ家で暮らし、同じ親に育てられているのだが、自分と常に寝食を共にしている友達でもない同年代の子供という存在が、何やら得体の知れないもののように思える瞬間があったようだ。喧嘩をすれば友達は友達でなくなってしまうこともあるが、どれほどひどい喧嘩をしても妹は妹で、兄は兄だ。しょっちゅう喧嘩をしていたから、その不条理さに困惑していたのかも知れない。

 

現在僕は24歳で、妹は22歳の年になった。初夏の頃に就職も決まり、来年の春からは社会人になる。未だに時々喧嘩をするが、「妹」という認識の喪失を起こすことはなくなった。それは、自分にとって妹とはそういう存在なのだということを認めたからだと思っている。

異性の兄弟姉妹をもつ友人たちは、大抵喧嘩をしつつも兄弟姉妹としての仲の良さがしっかりと根付いている気がする。僕と妹の間にはあまりそれがない。正直なところ、その責任の一端は僕にあるのだろう。とことこ後ろをついてくる妹を、煩わしさや恥ずかしさから突き放し続けてきた20数年の蓄積なのだと思う。

 

煙草の火を消して店に戻ると、美しい姉妹はとんこつラーメンの美味しさを讃える話に花を咲かせていた。ベトナムに行ったならとんこつラーメンなんか食べずにフォーとかを食べたい。妹が内定式から帰ってきたら、就職祝いにエスニック料理屋にでも連れて行こうかと思っている。

薬罐を火にかけ八月を沸かして

夏なのでまた、失恋をした。

あまりにささやかな恋だったので、正直なところ「恋」と呼べる代物かどうか定かではない。そもそも「好き」だったのかどうかも、今となっては随分あやふやなのだが、一抹の寂しさと喪失感になぜかホッとしているこの感覚は、学生時代に何度となく味わった「それ」に近いのも確かである。

 

ところで、恋とは。

正直なところ、もはや自分にとって「恋」が何を意味する存在なのかよくわからないし、24歳にもなってそんなことで頭を悩ませている暇もなくなってきてしまった。学生の頃は何かに取り憑かれたかのように、常に好きな人に胸を焦がしていたが、いつか友人に言われてしまったように「恋しているという状態に気持ちよくなっている」だけだったのだろう。そう簡単に認めてしまうのは、18〜22歳の自分に申し訳ない気もするのだけれど。

それぐらい、当時の僕の生活は「衣・食・恋・住」で成り立っていた。もとよりそんなに器用な人間でもないし、どれかひとつ忘れてしまわないと時間も感情も失われてゆく社会人生活などやっていけなかっただろうから、今にして思えばちょうど良かったのかもしれない。

 

 あまりよく知らないその人のことを思い出そうとするのだが、一度会ったきりなので顔も正確には覚えていない。自分も相手もよく笑っていた(そうであってほしい、という願望も入っているかもしれない)のだけれど、何を話したのかもほとんど忘れてしまった。ただ、たまたま見つけて入った梅田の洋食屋さんのオムライスが美味しかったことだとか、ふらっと入った喫茶店で腰掛けた椅子が可愛らしかったこと、七月の日差しがとても眩しかったことなど、その一日の背景の断片的な記憶ばかりがやけに鮮明に、脳裏に貼り付いている。それでも、一日(正確に言えばほんの半日程度の邂逅だったのだが)を通しての感情が「楽しい」のその先にある「幸せ」に分類されるものだったということは確かで、恋らしきものを予感するには充分だった。

 

八月のはじめ、彼女に恋人ができたのだそうだ。

 僕自身はともかく、「彼女は自分のことを好きではなかった」或いは「彼女が自分以外の誰かを好きになった」というだけのことだ。そのことをごく自然に受け入れられるようになったのはいつからだろう。これは進歩なのか、それとも退化と呼ぶべきなのか、自分でもわからない。蕩火にかけた薬罐の水がなかなか沸点に達しないままに火を消されてしまうようなことが多くなった、と考えると、そもそも自分に起因しているのかどうかも判断が難しいところである。コンロのツマミを回しているのは果たして、誰なのだろうか?

ごく当たり前で、同時に残酷なことでもあるのだけれど、水とエタノールの沸点が異なるように、人によっても喜怒哀楽の沸点はそれぞれである。僕が「幸せ」を感じた瞬間瞬間が、彼女にとっては全くそうではないことだって当然ある(逆もまた然り、のはずなのだが、どうしてなかなか巧くはいかない)。ばらばらのはずの互いの沸点がうまく共鳴して仲良く過ごしている人たちを見ると、羨ましいと言うよりも単純に、すごいなと思う。いや、やっぱ羨ましいな。

 

 先日、家で素麺を茹でながら、江國香織の『神様のボート』を読んでいた。前日に夜通し飲み歩き、朝方に帰って昼過ぎまで眠りこけた時のことであった。家族は墓参りに行っていて、ほんのりと後ろめたさを感じながら白い麺を湯に潜らせていた。

『神様のボート』は恋に囚われた女とその娘の物語だ。恋に恋して掴めない影を追いかけて「旅がらす」を続ける女の様はあまりに情動的で、ひどく滑稽である。

姿を消した夫(父)との再会を果たすべく住いを転々とする二人が、高萩を離れるあたりまで読み進めたところで、素麺の鍋が噴きこぼれた。慌ててコンロの火を消すと、入道雲のようにもこもこと湧き上がっていた泡はしおらしく萎んでいったが、茹だった素麺は鍋の中で踊り狂っていた。

素麺くらいに簡単に沸かせたはずだったのだが、と思わずにはいられない。熱湯ごと素麺を笊に揚げると、眼鏡がサッと曇った。

犬は歩くトコトコ、象は歩くノシノシ

もうすぐ6月が終わる。あっという間だ。もはやこの先、時間があっという間じゃないことなど無くなってしまうのだろう。

楽しい時間は矢のように過ぎていくものだけど、鬱屈とした時間も目まぐるしく過ぎていくのは、救いでもあり老いでもあるようで少し侘しい。

 

6月1日木曜日、帰宅中に駅の階段で左足を骨折した。

珍しく19時前に会社を出られたので、さっさと家に帰って本でも読もうか、はたまた撮り溜めしていた映画を消費しようかと、足取りも軽く階段を降りているところだった。上りも下りも一段飛ばしをするのは僕の悪い癖だと、今になって痛感する。目の前にヌッと、歩きスマホの人が階段を駆け上ってきたのにハッと気づく。とっさに避けようとして足を踏み外し、3〜4段分くらいの段差を落下、左足の甲から着地した。

こういう事故だったり大きな怪我をする瞬間はスローモーションになる、なんて話はきっと後付けでしか無いが、身に迫る不可避の危機に直面した瞬間、人はマスターベーションの後のように冷静になれるということは確かだ。パキッと小気味の良い音が身体の内側から響き、折れたな、と僕は直感した。患部に激痛が疾ると同時に、人体の神秘たる機関である脳はエマージェンシーを全細胞に発令、ドーパミンだのエンドルフィンだの脳内麻薬を分泌し、身体の主たる僕がその痛みで発狂、絶叫、ないしは失禁といった社会的スーサイドを遂げぬよう適切な信号を送った。

理性を保ったままひとまずソロソロと立ち上がって電車に乗り、なんとか家の最寄駅に到着するも、そこから15分歩いて自宅まで帰るのはどう考えても不可能であった。駅前でタクシーを拾い、救急病院で診てもらい、レントゲンを撮ってもらう。

「折れてますね」

医師の宣告に半ば食い気味で

「知ってます」

と喉まで出かかったのを押し止められたのも、脳内麻薬のおかげだろう。こんなにドキドキしない宣告も初めてだった。ともかくその場でギプスを装着され、僕は約4週間の松葉杖生活を余儀なくされたのであった。

 

しかし、松葉杖がこんなにも欠陥のある移動手段だとは思わなかった。

まずはじめに腕が悲鳴をあげる。一歩進むごとに自重を丸ごと両腕で支えなければならないからだ。耐えかねて脇 a.k.a. 毛細血管がいっぱい詰まってるとこ に身体を預けるようになると、きっちりそのツケが痛みとして回ってくる。次いで、折れていない右足が、不自然な着地や常に全体重が乗っかっている状態のために靴擦れしてくる。満身創痍の出来上がりである。1日目はとにかく通勤だけでヘトヘトになった。そして、腕はともかく百歩譲っても脚だけは怪我しちゃいけない、そもそも脚を怪我していては一歩も譲れないのだ、と悟った。

 

梅雨のこの時期に雨がほとんど降らなかったのは、不幸中の幸いと言う他ない。平日は家族の自転車を借りて駅前で乗り捨て、追ってそれを取りに来てもらうという通勤を繰り返した。そのうちに、胸板がえらく分厚くなってきた。松葉杖で家から会社までの道のりが思いの外苦ではなくなりつつあった。実家暮らしの有り難さに、ずいぶん久しぶりに気がついた。

休日は専ら家で安静にしているか仕事しているかの二択だった。タイミングの悪いことに、ただでさえ祝日がないのに休日出勤まで多い月だった。入れていた遊びの予定はすべてキャンセルした。普段丸一日家にいるという休日を過ごすことがほとんど無いので、精神衛生上とてもよろしくなかった。それこそ、撮り溜めてある映画や積み上がった本を読んでいればよかったのかもしれないが、いざ「24時間」という膨大な単位の時間を塊で与えられても、行動の割り振りが咄嗟には出来ないのである。自由に外に出られないということが、何よりキツかった。

周りの人がキビキビ動いていたり土日にちゃんと遊んでいたりするのを見ていて、大げさなことを言うと、自分だけ人生が停まってしまっているような気がした。みんな何かしらの形で前に進んでいるのに、足が折れていようがいまいが、僕は何も進んでいないのではないか?と思い至ってしまった。

 

月曜日、ようやくギプスが外れた。

脚を傷つける恐れのないよう、最近ではノコギリやトンカチではなく共振でギプスを割るらしい。ギプスと骨が同じ振動数で割れなくて良かった。科学はすごい。風呂に入って左足をタオルで擦ると、ビックリするぐらい垢が出てきた。機能していなくても、人生が停まってしまっていても、左足はしっかりと新陳代謝していた。

今は松葉杖をつきながらも両足で歩いている。もともと歩くのが速いので、遅々とした歩みがもどかしい。だが、テクテク歩くおじいさんにも抜かされてしまうようなこの歩幅が、いまの自分にちょうどいいのだろう。ソロソロ歩きでも前に進めたらそれでいい。この歩幅で進んでいきたい。

 

 

白磁の初恋

今にして思えば、あれは初恋だったのだろう。

 

父親の仕事の都合で、私は幼い頃からジプシーのように日本中を転々としていた。まだ物心もつかないような昔には家族そろって北海道に住んでいたこともあったらしい。当時名古屋のアパートで、北の大地への転勤の報せを食卓で父から聞いたときのショックを、母は「さすがに箸が止まった」と語った。

私に芽生えた自我が記憶を構築するに足りるほどに成熟しだした頃、一家は石川・金沢に暮らしていた。6歳を迎えた私は小学生となり、片道30分かけて通学する日々を送るようになっていた。

学校近くに住んでいる生徒は各々一人で登校していたが、私のような遠方からの生徒は近所の1~6年生で7、8人の班を組んで登校するのが決まりであった。同じ通学路をゆく別の班に、ニシムラさんはいた。

 

ニシムラさんは同じクラスで、一番背の高い女の子だった。活発で明るい性格も相まって、すぐに彼女はクラスの中心になった。後にじゃりン子チエを初めて見たとき、彼女の髪型はチエのそれにそっくりだったのだということを知った。

彼女とどんな話をしたかなどはさっぱり覚えていない。小学一年生の頃のことだ、男子が話すことなど誰に対してもおおかたデジモンポケモンと相場が決まっているし、そもそも教室で女の子と仲良く喋ろうものなら冷やかしの対象となってしまう。それでも、家が近所ということもあってよく一緒に下校していたように思う。ニシムラさんの家は私の通学路の途中にある神社の近くにあって、そこは専ら子供たちの遊び場でもあった。近所には一般的な遊具一式が揃った公園もあったが、不思議と神社の方で遊ぶことが多かった。

ある日の夕方、ニシムラさんを含む何人かで下校している時のことである。学校からの長い道のりの途中から、私は尿意に襲われていた。そろりと首をもたげた尿意は歩みを進めるごとに「出してくれ」と主張するその声を大きくしていく。次第に口数が減り、冷や汗をかき、足取りが奇妙になっていく私の様子に、同級生たちは誰も気がつかない。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ようやく神社までたどり着いた。この時私は、半分諦めていた。ここから家まであと10分はかかる。神前ではあるが神様も助けてはくれまい。自分にできるのは、なるべく人目につかないところを探すことぐらいだった。その時、ニシムラさんが私に顔を近づけて耳打ちした。

「うちのトイレ、貸したろか」

ニシムラさんはずっと、私の内なる闘争に気づいていたのだ。感謝と羞恥で答えに詰まる私の返事を待たず、ニシムラさんは一緒に帰っていた同級生たちに「じゃあね」と言って、神社から徒歩30秒の自宅へと私の手を引いて走った。

 

彼女のおかげで私は「お漏らし野郎」のレッテルの授与を回避できた。しかし、その日以来、下校中に神社の前で尿意をもよおすサイクルができてしまった。学校を出る前にトイレで用を足しておいても、神社に到着する頃には尿意が爆発せんばかりに膨れ上がっていた。そしてその度に、私はニシムラさんの家でトイレを借りた。

そのうち、ニシムラさんと帰っていないときでもおばさんに断ってトイレを借りるようになった。おばさんは嫌な顔一つせず、ほぼ毎日トイレを貸してくれていた。いつか、ニシムラさんがうちの近所の公園で遊んでいてトイレに行きたくなったら貸してあげよう、と思うようになった。しかし、ニシムラさんがうちのトイレを使うことはなかった。

小学二年生に上がる少し前に、我が家の名古屋への引越しが決まった。

春休みに入る最後の登校日、クラスでは私のお別れ会が開かれた。色紙や手紙、手づくりのプレゼントなどをクラスメイトからたくさんもらった。その中の一つに、「かなざわでトイレいきたくなったらまたきてね」と書かれた手紙があった。

その後も何度か繰り返した引越しの中で、贈り物はみんなどこかへ行ってしまった。あのトイレへの招待状も失くしてしまったが、いつか私が金沢の地でもよおしてしまった時、ふと目の前にあの白磁の便器が現れるような、今でもそんな気がしている。

やく男、かく男

今年めでたく厄年を迎えた僕の最初の災厄は「肌荒れ」という形で訪れた。

肌荒れごときで災厄とは大袈裟な、と思われるかもしれないが、凡そ首から上で褒められたところが肌の綺麗さしかない僕にとっては一番の災厄と言っても過言ではない。持たざる者から唯一の拠り所を奪い去る、これを災厄と言わず何と言おうか。はじめは冬場の乾燥した空気に負けて少し粉を吹く程度だったのが、頬などが硬くパリパリになってきて、今では顔全体に湿疹ができて薄っすら赤くなっている。

去年まではこんなこと無かったのに。桃井かおりは何歳からがお肌の曲がり角と言っていただろうかなどと考えながら、風呂上りにフェイスローションとニベアを塗り込む日々を過ごしている。ここ最近の不摂生(主に会社の陽気な上司に連れ回される夜会)が祟ってのことであろうが、学生時代も同じようにしょっちゅう夜な夜な飲み歩いていたことを思えば、なんだかんだで「ストレス」とかいう言葉で片付けられてしまうありがちな問題なのかもしれない。

 

話は変わるが、最近グダグダ悶々としていたダウナー期を抜けて(つい最近まで「ダウナー」がこんな便利な言葉だとは思わなかった)、ゆっくりとではあるが自分の望む方角を目指して少しずつ歩けるようになった。

まず、小説創作講座(全3回)の1回目に参加してきた。エンタメ・掌編小説を得意とする松宮宏 氏を講師に迎えた、小さなワークショップである。小説家になりたいわけではないが、物語を生み出す頭の使い方や、読みやすい面白い文章を書く力を付けたかったのだ。現在も第2回に向けた課題にしこしこ取り組んでいる。

もうひとつ、街の本屋さんを紹介するキュレーションサイト「読読(よんどく?)」にサポーターとして参加している。

http://yondoku.jp

主には読読に取り上げられているお店の人がオススメ本を紹介したり、自分のお店で行うイベント情報を発信したりしているところに、ただの一読者として「侭よ」と飛び込み勇んだかたちである。他のサポーターの方々の文章が上手くて、拙文をアップした後あまりの文字どおりの拙さに眩暈がしたけど頑張って続けていこうと思う。インターネッツの匿名性をフル活用して偉そうに書評とかしてやろうと目論んでいる。文章と恥はかいてナンボだ。

 

才能などは無いので、書きながらもすぐに手は止まる。考えがうまくまとまらないことなどしょっちゅうだし、こんなブログですらやっとの思いで一記事書き上げている。それでも、書いている時は幸福感で満たされている。今はまだこれは寄り道みたいなものだけど。

ペンを持つ手にも熱がこもり身体が上気してくると、血行が良くなり湿疹が痒くなってくる。ポリポリ頬を掻けばポロポロ薄皮が剥ける。これもひとつの脱皮かもしれないな、と思いながら、かくことをやめられずにいる。

誇れる女の行進

「例えば、どうしようもなく苛立ってる女の子がいるとするでしょ。その子に対してどう接してあげるべきなんだと思う?」

カオリはフォークをくるくる回してスパゲッティを絡めたりほどいたりしながら僕に聞いた。

つい20分ほど前、突如として「ここ、相席、いいかしら」と僕の向かいの椅子に座り、イカのジェノベーゼと白ワインをボトルで注文した女は、今こうして僕の核心に触れようとする質問をしている。何故こうなったのかはわからない。わかるのは「理屈じゃない」ということだけだ。彼女は気の赴くままに僕に問いを投げかけている。そして、僕は僕で、自分でも理由の分からぬままに、その問いに対して真摯に答えようとしている。見ず知らずの、今しがた出会ったばかりの彼女の問いが、何故か僕の胸に楔のように突き刺さったのだ。

 

カオリと名乗るその女は、都会的な顔立ちをしていた。とびきりの美人というわけではないが全体的に整っており、やや濃いめの化粧も、大人の女性らしい品のある印象を与えている。青のストライプのワイシャツにはしっかりとアイロンがかけられていて、シワひとつない。切り揃えられた前髪の下から覗く、何かを見透かしているような瞳に口が乾き、思わずワインで唇を湿らせる。

彼女の問いに、経験は少ないながら、僕が今までに付き合ってきた女の子に対してどう接してきたか思い起こした。

高校生のときに交際を始めた最初の彼女は、生理の症状が重たかったらしく、その度に決まって不機嫌になった。僕は喧嘩や言い争いが本当に嫌いな性質だったので、そんなときには必ず距離を置くのだった。

数週間前に別れた彼女も、機嫌の良し悪しがわかりやすい人だった。虫の居所が悪い時は、マカロニサラダを作ってフォークでマカロニをいくつもグサグサと突き刺して憮然として食べるのだった。そんな彼女に対しても、僕は黙って嵐が過ぎ去るのを待った。それが最善の方法だと信じていたわけでもなく、僕はただそうすることしか出来なかった。

 

僕が答えに詰まっていると、カオリは

「あなたって、きっと波風を立てるのが嫌な人だから、そっと距離を置くタイプだったんでしょうね」

と哀れむように言った。

「そのとおり」

僕は苦笑しながら白状した。

「昔からそうすることしか出来なかった。慰めてやることも、話を聞いてやることも試してみたけれど、彼女たちが満足できるような答えも出せなければ、気の利いた相槌を打つ器量もなかった」

ウェイターが僕らのグラスに水を注ぎにきた。ごゆっくり、と微笑んで去って行く彼を見送りながら、カオリは

「あなたの肩を持つつもりはないけど、人によっては放っておいてほしいという子もたくさんいるわ。そういう意味ではあなたの方法も間違ってないのよ、きっと」

と言った。

「だけど、待つだけっていうのはやっぱりアイデアが足りないわね」

「じゃあ、君は、何が正解なんだと思うの?」

そうやってすぐ『答え』を聞こうとするのがイヤなのよ。と吐き捨てる、不機嫌な顔をした数週間前の彼女が脳裏に浮かんだ。

「正解なんて無いのよ」

カオリは空になったワインボトルのラベルを爪で剥がしながら呟いた。

「だけど、あなたの言う『正解』に一番近いのは、『許す』ことよ」

皿の上には丸まったスパゲッティが所在無げに蹲っていた。

思夏期のころ

小説にせよ個人のブログにせよ、人の文章を読むということは自分にとって実りの多い趣味のひとつだ。

文筆家による書籍やライターによるコラム・インタビュー記事などはもとより、表現の場においても誰もが気軽に文章を書き、公に発信できるプラットフォームが整っているおかげで、たまたま目にした顔も知らないような人の文章にもドキッとさせられたりするような素敵な世界だ。

改めて口にするまでもないことではあるが、そういう場としてのブログはとてもおもしろい。

 

ブログを書くことは億劫だ。

誰がこうしろと言ったわけでもないが、暗黙の了解としてブログの読み手は「日常、その他周辺の由無し事の記録」的役割を想定してしまうので、必然的に書き手も自分で設定したテーマ(≒タイトル)に沿ったそれ相応のボリュームの文章を、と腹部は臍より少し下あたりの丹田に力を込めてブログを書いてしまう(そもそも、ひと言で済むような刹那的な発言をしようとブログを始める人はかなり珍しいのではないか)。

だが、その面倒くささを抱えてでも書きたいことがあるから、人はブログを書く。そんな熱量のある文章は、どんなくだらないトピックであろうが読んで実りがないわけがない。

 

最近、身の回りの友達もぽつぽつとブログを書く人が増えてきた。見ず知らずの他人だからこそおもしろい文章もあるが、書き手の人となりをよく知っているからこそおもしろい文章もある。

自分のブログを読み返すと、よくもまぁこんなどうしようもないことを恥ずかしげもなく書き晒したものだとうんざりすることが十中七億ぐらいの確率であるが、案外友達も皆、僕と似たり寄ったりなどうしようもなさに溢れたことを書いているものだ(ごめんね)。

それを読んで、そんなもんだよなと笑ったり、あんなによく喋ってたのにその実苦しんでいたということに気づいてあげられてたのだろうかと悲しくなったりする。

友達の、今まで感じられなかった熱量にあてられる。その感覚が愛おしい。

 

遠い昔に思春期を終えたはずなのに、今でもみんなくるくるもがいたり、ぼんやりつまずいている。大人になったら好き嫌いなんか無くなってなんでも食べられるようになると思っていたのに、大人になるにつれ嫌いなものが増えてしまった気がする。ひとつうまくやり過ごせることが増えるたび、ひとつ何かがヘタクソになる。

こういうもの煩いや鬱屈とした気持ちの動きに「思春期」だなんて恥ずかしい名前をつけて、春という季節に閉じ込めた先人はズルいな、と思う。

季節は地続きだ。歳をとれども悩ましい思いが尽きることなどあるはずもない。

 

先日、24歳になった。

その一日で変わることなど何ひとつない。23歳最後の夜に浴びるほど飲んだ酒も、24歳最初の朝に二日酔いというかたちでしっかり引き継がれていた。

孔子は「四十にして不惑」と言った。

アホか。不惑などそれこそ人間の終わりだ。

いつまでも惑わせろ。

俺はまだ思夏期に入ったばかりだ。