春と三段論法

一体それがどのような根拠に基づいて語られているのかはさっぱりわからないが、人は自分の生まれた季節を好きになるものなのだという。自分は冬生まれで冬が大嫌いである。すなわち、僕はヒトではないのかもしれない。
己が何者かさえ知らぬサムシングにもこの街はやさしい。先週酒場で知り合った女の子にフワッとした約束を取り付けられながら、行くも帰るも出来ぬままフラフラしている僕にすら立ち飲み屋の門戸は開かれている。羽虫を誘う害虫灯の火のように、赤提灯が燃える。



僕によく似た(似てないかもしれない)トラックメーカーは昔「友達は誘ってくれるよ ああ」と歌った。何気ないやり取りから不意に飲みに誘ってくれたのは彼女だ。すなわち、彼女は友達なのだろう。
蟹味噌とハイリキを舐めながら誘われた口上を反芻する。気遣いたっぷりの文章に温度がない。自分に気のない女の子が大好きだ。オススメされた映画を観たりする虚無な時間も愛おしい。真っ当な恋路を歩むためのなにかはAとBの狭間で零れ落ちてしまったのだ。



常日頃から詰まっている鼻の詰まりが一層酷い。ついに花粉症デビューかとも思ったが、前頭葉の鈍い重みという花粉症らしからぬ症状も少々。すなわち、おそらく風邪をひいている。
今日に限っては風邪をひいて居たくないので、俺は花粉症だと暗示をかけて呑んでいる。そうすると頭の鈍痛もうっすら早めに酔いが回ったかのように錯覚するので、プラシボも馬鹿にはできない。まず、土曜日に飲むなと言うのがどだい無理な話なのである。



大学時代の友人たちはおおかたみんな恋人がいるのだそうだ。そんな話を大学時代の友人から聞いた。すなわち、彼女は僕の大親友なのだろう。
人生などという人間にとって最大の尺度の時間軸を、僕は上手く認識できない。明日の予定さえもちゃんと立てられない。このままいけば金曜日の洗濯物も日曜日の夜まで干しっぱなしだ。女の子はみんな先のことを考えるのが得意そうに見える。設計士とかって、女性のほうが向いてる職業なんじゃないだろうか。



強いかどうかは置いておいて、僕はお酒をまあまあ呑む。暖かくなればビールが美味い。すなわち、僕は春が大好きだ。
鴨川にはヌートリアと綺麗な菜の花が現れることを、何年も前に知った。あの一日は奇跡みたいだったということを僕は何年経っても覚えているんだろうけど、その日のことを春の最中には不思議と思い出さなかった。それはそれで良い春を過ごしてきたのだろう。



そうこう言ってるうちに、男から連絡が来た。僕が虚無感に苛まれている時、だいたいヤツから連絡が来る。すなわち、ヤツも大親友なのだろう。

一緒にふるえてよ

「ラブコメディ」なるジャンルが嫌いだ。なんなら憎い。

直訳すれば「恋愛喜劇」とでもなるのだろうか。自身のそれほど多くもない(決して少なくもない)恋愛譚を振り返ってみれば、思い浮かぶのはほとんど悲劇ばかりだ。ゆえに、ストーリーに共感したり登場人物に感情移入できない。
恋愛ってそんな爽やかなもんなのか?
グラスに輪切りのレモンが刺さったメロンソーダのように、柑橘系の香りと共に口の中でシュワシュワ泡立ち弾けるようなもんなのか??
じゃあ僕が今まで涙目になりながら飲み下してきたアレはいったい何だと言うのか???
青汁か????
ゔんん、不味い!もう一杯!!

とにかく青汁のエグ味に慣れきった僕の前にメロンソーダなんかを出されても、胃も脳みそも受けつけないのだ。だいたい喜劇って時点でハッピーエンドが約束されているではないか。他人のノロケ話と校長先生の挨拶ほど退屈なものはないと昔から相場が決まっている。だから、もし僕が映画のポスターに小さく書かれた「暴走ラブコメディ」の文字を見つけていたら、日本中の女子の共感を欲しいままにする某歌姫へのアンチテーゼとも取れるタイトルのこの映画を観ることは、無かったかもしれない。

いつか読まなくてはと漠然と思っていた綿矢りさの原作小説を手に取る前に、友人に誘われて観に行った。ネットでも良い評判をちらほら目にしていたし、特に断る理由もなく2時間半をスクリーンの前で過ごした(彼女と観る映画はなぜだか決まって長尺なものばかりだ)。


24歳のOLヨシカは、中学の同級生であるイチを10年間片想いし続け、疎遠になってからも(そもそも仲良くもなっていない)数少ないイチとの思い出を蘇らせては独り悶える日々を過ごしていた。そんなある日、会社の同僚であるニから猛烈なアピールを受け、遂には告白される。全くタイプではないニの猪突猛進な愛情表現に辟易しつつも、人生初のアバンチュールの気配に浮かれるヨシカ。しかし、ひょんなことから妄想片想いの相手であるイチと再会する好機を掴み・・・というあらすじ。

映画はヨシカ(松岡茉優)の独白から始まる。ハンバーガーショップのウエイトレスに、ただひたすらに話しかける。顔を付き合わせて、目と目を合わせて。

「本能のままにイチと結婚しても絶対幸せになれない。結婚式当日もイチが心変わりしないようにって、野蛮に監視役続けてなくちゃならない、そんなんで幸せなんて味わえるかよ。その点ニならまるでひと事みたいにお式堪能できちゃう。ドレスのままチャペルから何だか知らんが丘駆け下りてわがままにニのこと放ったらかして、波と戯れたりデコルテあらわなドレスで肩上下させてハーハーしたりして花嫁タイムをエンジョイできちゃう」

冒頭の語りからフルスロットルで迫ってくるヨシカのイタさ、捻くれっぷり。最寄駅の駅員さん、コンビニエンスストアの店員さん、堤防で釣りをするおじさんにも、のべつ幕無しにベラベラ話しかける。
滔々と吐露されるセリフはラブコメディのヒロインが持つべき純真さ、素直さ(偏見)からはおよそかけ離れた、ぐずぐずに膿みきった謂わゆる「こじらせ女子」の心情であり、ラブコメディを毛嫌いする僕の歪んだ視線と重なり合う(その視線は好きな人を直視できずに視界の端でこっそり伺うような、まさにヨシカの言う「視野見」である)。

だけど、本当はヨシカも幸せになりたいだけなのだ。好きな人の瞳に映りただ認知してもらうという、それだけのことで、自己肯定感の低い人間は幸せになれる。だからヨシカは涙を瞳に溜めて言う。
「それでもやっぱり、イチが好き」


だけどそれは奥ゆかしさでもなんでもなく、ただの「臆病と不遜」なのだ。
やがてイチとの再会を果たしたヨシカはふたりで朝焼けを見ながら絶滅していった生き物たちの話をし、そして自分がかつて息を潜めてイチを視界の端に捉えていたことを告げる。しかし、視界の端で見ているだけでは本質は映らない。
みんなから人気の王子様のように見えていたイチは、実はいじめられていて苦痛を感じていた。そして同様にイチもまた、まったくヨシカを認知していなかったのだった。

10年来片想いしてきた相手に名前すら覚えられていないという現実。と同時に、ここまでヨシカが親しげに話しかけてきた街の人々も、じつはヨシカが妄想の中で会話していただけなのだということが明かされる。
このヨシカの脳内→現実世界の暗転具合がものすごい。あんなにコミカルだったのにヨシカに一瞥もくれない釣りおじさんとか。そんなんありかよ。


「ラブコメディ」と銘打たれているだけあって(?)、ラストはなんとなくハッピーエンドで終わる。いや確かにあれは、ハッピーエンドなんだろうけど、どうにも僕は悲しくなってしまった。
ひとの気持ちを理解することは難しい。難しいなりに(全体の何割かを)理解することはできる。そしてその先に「わかる、自分もそうだよ」と共感できたり「わかるけど、それはないな」と共感できなかったりするフェーズがあるのだ、と思っている。
しかし、この後半にかけてのヨシカの言動はなかなか理解に苦しむものばかりだ。なのに自分がヨシカならそうしてしまうような気がしてならない(これを「ねじれの感情移入」と呼びたい)。
もはやこのねじれの感情移入に関しては、ストーリー云々以上に松岡茉優の迫真の演技によるものだと言って差し支えないだろう。

自己中心的で、一方的で、ひねくれていて。言語化すれば明らかなように、ヨシカにはおよそいいところがない。
それなのにどこか可哀想な気持ちになってしまうのは、誰もが持ちうる自分の心の熟れすぎてグズグズになった膿のような部分を重ね合わせてしまうからだろう。
治癒力には個人差があって、そういう心の腐りの治りが遅い僕のような人種にとってはひどく心をふるわされてしまったのだ。

それはお前に同情してのことだよと言っても、うるせぇ、勝手にふるえてろ、と言われてしまうんだろうけど。

新年の挨拶における退屈な手続き

年が明けた。

 

「年が明けた。」という書き出しが些か滑稽に感じるくらい(誰も2018年を2017年と書き間違えることもないくらい、と言い換えてもよい)にはもう既に2018年は進んでいるのだが、とにかく一つの事実として年が明けた。「一年の計は元旦にあり」なる諺が古くから伝わるように、年の始まりである元旦は何かしら一年の計画を立てたり新しいことを始めるには絶好のタイミングであると言えよう。何もなければただの地続きの日常と変わらない一日が特別な区切りになるのだから、暦という概念はすごい。

 

かく言う自分もギリギリ人の子なので、まあ年も明けたし新しいことしてみるかということで、今まで避けてきた「レビュー」を書く。

もともと本・音楽・映画など目や耳で受容する嗜好品が好きで、じっさい何度かお気に入りの作品の話を書こうと思ったりもしたが、なんとも恐ろしいことに身の回りには僕なんかよりもずっと詳しい人ばかりなのだ。映画には映画の、音楽には音楽のギークどもが多すぎて、別に奴らのために書いてるわけでもないのだが、およそ彼らの目に触れて耐え得るレベルの関連知識や作品に隠されたテーマを記号的に分解し紐解けるような考察力は僕には無く(特に映画フリークの友達は何故あんなにおもしろいレビューが書けるのだろう、おすぎがゴーストライターなのか?)、そのことを思うとタイプする両手の五指(或いはフリック入力する左手の親指)の震えが止まらないのだった。

とはいえ、二月からの新しい仕事の核は「プロダクトについての魅力を文章で伝える」ことなので、対象についての造詣を深く持ち、価値を掘り下げて言葉に落とし込む作業からは逃れられない。そのための地肩をつくるべく、自分が心を動かされたものについてその理由を言語化する練習のつもりでやってみようと思う。たぶん、レビューと呼べるほど立派なものにはならないけれど。

タイプライターはモルフォ蝶の夢を見るか?

世の中に提唱されるあらゆる論説のひとつに「バタフライ効果」というものがある。

 

バタフライ効果(バタフライこうか、英: butterfly effect)とは、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象。カオス理論で扱うカオス運動の予測困難性、初期値鋭敏性を意味する標語的、寓意的な表現である。気象学者のエドワード・ローレンツによる、蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?という問い掛けと、もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、という数値予報の研究から出てきた提言に由来する。 

※上記、インターネッツにおける善意・お節介・虚言の坩堝ことWikipediaより引用

 

文中の「寓意的な表現」を具体的に言うと、「ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」というものになるらしい。一見テキサスの気候とは無関係そうな、遠く離れたブラジルでのほんの僅かな大気の揺らぎ(=蝶の羽ばたき)が、巡り巡って大きな変化(=竜巻)をもたらすという理論だ。

 望むと望まざるとにかかわらず、僕たちは日々を過ごしていく中で無数の選択を迫られ、自分の意思の有無を別にして時に何気なく、時に熟考してその答えを選び取る。めざましジャンケン、どの手を出すか?点滅する信号、走って渡るか?次の青を待つか?打ち上げ花火、下から見るか?横から(etc

一つ一つの選択は僕たちを異なる未来へ連れていくが、その選択によってもたらされる変化の多くはほとんど誤差レベルと言って差し支えない。例えば今年最後の出勤日、僕はいつもより少し遅く家を出たが、結局いつも乗る電車に間に合うように駅に着き、普段どおりお利口さんに出社した。もし駅に着くのが遅れて一本後の電車に乗ることになっても、始業時間までにはきちんとタイムカードを押せていたはずだ。このように、選択により分岐した未来の多くは最終的にメインストリームとなる未来に収束することとなる。そういう意味では、前述のバタフライ効果は正鵠を射た論説というよりむしろ、愚にもつかない詭弁と言うべきかもしれない。僕が口笛を吹いたとしても冬型の気圧配置には何の影響ももたらさない。そもそも、僕は口笛が吹けない。

 

しかし、我々の人生において「転機」と呼ばれるタイミングは必ずある。ただその多くは転機によってもたらされた変化を体感した時に初めて「あぁ、思えばあれが転機だったのだ」とわかるような代物なのだ。つまりは転機云々も結果論でしかないのだが、今年はその「転機」を色濃く感じる一年だった。

転職することが決まったのだ。毎年のように「転職だー!転職するぞーー!!」と豪語し続けいつしかオオカミ少年よろしくテンショク少年になりかけていたが、ついにである。2月から京都の企業で自社メディアに掲載するコンテンツを制作するライターとして働くことになった(会社そのものはwebコンテンツ制作会社や編プロなどの類ではなく小売業なので説明が難しい…)。自社製品に携わる職人さんや工房を訪ねて取材する機会が多いらしく、学生時代にフリーペーパーを作っていたときの面白さを思い出してソワソワしてしまう。その転職も、僕の人生におけるあらゆる選択の連続の結果である。

 

今まで自分は大きな流れに抗うことなく、その流れに身を任せて生きてきた。人生なんてなるようにしかならないというケ・セラ・セラ精神が染み着きすぎたあまり、選択にほとんど自分の意思がなかったのだ。もちろん、大学や就職といった大きな節目(例外的にわかりやすい転機)においてはある程度自分の志望があってそこに向けて受験勉強や就職活動をしてきたが、自分の能力やキャパシティを早々に見限ってしまい、それ以上の場所を目指して努力することが出来なかった。

転職を本格的に決意したのは、ふとした瞬間だった。イベント終了後の施工業者の撤収作業に立ち会っている時、自分が出来ることって何だ?という疑問が頭を過った。施工業者は看板や装飾の設営ができる。PAは音響のミキシングができる。イベンターはイベントの執り回しが。デザイナーはデザインが。コピーライターは広告コピーが。いろいろなプロフェッショナルの手を借りて案件を取りまとめるのが自分の仕事だが、その自分自身が何かを生み出せるのか?という疑念が湧き上がってきた。湧き上がってきたが、どうしたらいいのかわからなかった。今の仕事も望んで入った業界であるということもあり決して嫌いというわけではなかったのだ。読み書きが好きで、言葉や文章で生活者と企業を繋ぐコミュニケーションの手助けをしたいということを理由に編集者やライターに興味を持ったが、それと自分の文章力とは別問題だということも、僕の頭を悩ませた。

悩ませながら、とりあえず進んでみることにした。

転職サイトには登録せず、自分が行きたいと思う企業をひとつ見つけて応募する。選考途中で落ちたらまた次を探す。決して効率の良いやり方ではないし、自分自身あまり転職活動をしている実感はなかった。そのぶんストレスは少なかったし、何よりケ・セラ・セラ主義者の性分に合っていた。落とされたりもしたが、面接はとてもやりやすかった。大きな流れに運ばれるままに就職活動をしていた新卒の頃に比べて、曲がりなりにも社会人3年目の自分は「はたらく」ことを知っていた。自分の人生の舵を取っている、はじめての感覚だった。

 

自分にとって大きな変化を迎えた一年だったが、ここからがはじまりになるのだろう。小さな転機によってもたらされた転職がこの先のもっと大きな変化の転機になるように、自分の文章がいつかどこかで大きな風を呼ぶように。これからも読み書きを頑張りたい。頑張りたいぞ俺は。僕とか俺とか異なる一人称が混在してるけど大丈夫か。来年もブログも頑張るぞ。

 

#わたしの転機

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少女は燐寸を擦るために煙草を吸う

幼い頃から転勤族であった自分にとって、故郷と呼べる場所はない。大人になれば散策してその街で生活することの楽しさを享受できるが、二、三年で住む街を味わい尽くすには子供の行動範囲ではあまりに足りない。時間や金銭における自由を手にする大学生活を過ごした京都は、そんな自分にとってはじめて「故郷」と呼べる場所になった。片道一時間半をかけて通うその道のりは、いつの間にか一瞬になった。阪急烏丸駅から地上に出た瞬間の空気が何よりも馴染むようになった。街の変化を歓迎し、惜しむようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ものすごく体裁よく書いてたのに、このテンションのまま続けられなくなってしまった。直情的な気持ちをカッコよくまとめるのって難しいな。何かと言うと、結局未だに京都に住みたいという話です。

京都が好きだ。京都と付き合いたい。初デートはもちろん京都、六曜社でドーナツ食べたい。3年半の交際を経て京都と結婚したい。京都と恥じらいながら初夜を迎えたい。京都との間に2人の子供を授かりたい。京子(長女)を一足先に春の鴨川に連れてってあげたい。京子と京平(長男)が5歳と3歳になったら船岡温泉デビューさせたい。7歳と5歳になったら京都音博に連れて行きたい。帰って疲れ果てた京子と京平に、子守唄で宿はなしを歌ってあげたい。

 

最近いろいろコソコソ頑張っている。本当はちゃんと結果が実を結んでから書きたくて、途中で言葉にすると零れ落ちそうでひと月ぐらい我慢してたけど、なんかもう期待と不安で押し潰されそうなのでとりあえず文章にしたらこんな感じになってしまった。俺は京都に住むために文章を書きたいよ。

妹の消滅

近所にある小さなコーヒー屋さんでアイスオレを飲みながら本を読んでいると、女性二人組が店に入ってきた。彼女たちは僕の向かいの席に通され、和気藹々とメニュー選びに興じている。向かって右手の女性がお姉ちゃん、ともう一人を呼ぶ。どうやら姉妹らしい。本から目線をちらりと上げて様子を窺う。なんとどちらも美人だ。僕より少し年上だろうか。

美人姉妹というだけで、途端に本の内容が頭に入らなくなってしまった。目で追う活字をそっちのけにして、阿呆な脳みそは耳に入る彼女たちの声を処理してしまう。妹であろう女性の友達がベトナム旅行に持って行くカメラ選びに迷っているらしく、お姉さんが使っているソニーのデジカメを勧めたのだという。姉はそれを嬉しそうに聞いている。僕は同じ行を三回読んでいることに気づき、読書を諦めて煙草を吸いに店の外に出た。

 

僕には2歳年下の妹がいるが、兄弟姉妹という存在を、昔からきちんと認識できないでいる。

小学生の頃、しばしば母に「里佳子(妹)って“誰”なん?」と尋ねていた。もちろん、妹とはずっと同じ家で暮らし、同じ親に育てられているのだが、自分と常に寝食を共にしている友達でもない同年代の子供という存在が、何やら得体の知れないもののように思える瞬間があったようだ。喧嘩をすれば友達は友達でなくなってしまうこともあるが、どれほどひどい喧嘩をしても妹は妹で、兄は兄だ。しょっちゅう喧嘩をしていたから、その不条理さに困惑していたのかも知れない。

 

現在僕は24歳で、妹は22歳の年になった。初夏の頃に就職も決まり、来年の春からは社会人になる。未だに時々喧嘩をするが、「妹」という認識の喪失を起こすことはなくなった。それは、自分にとって妹とはそういう存在なのだということを認めたからだと思っている。

異性の兄弟姉妹をもつ友人たちは、大抵喧嘩をしつつも兄弟姉妹としての仲の良さがしっかりと根付いている気がする。僕と妹の間にはあまりそれがない。正直なところ、その責任の一端は僕にあるのだろう。とことこ後ろをついてくる妹を、煩わしさや恥ずかしさから突き放し続けてきた20数年の蓄積なのだと思う。

 

煙草の火を消して店に戻ると、美しい姉妹はとんこつラーメンの美味しさを讃える話に花を咲かせていた。ベトナムに行ったならとんこつラーメンなんか食べずにフォーとかを食べたい。妹が内定式から帰ってきたら、就職祝いにエスニック料理屋にでも連れて行こうかと思っている。

薬罐を火にかけ八月を沸かして

夏なのでまた、失恋をした。

あまりにささやかな恋だったので、正直なところ「恋」と呼べる代物かどうか定かではない。そもそも「好き」だったのかどうかも、今となっては随分あやふやなのだが、一抹の寂しさと喪失感になぜかホッとしているこの感覚は、学生時代に何度となく味わった「それ」に近いのも確かである。

 

ところで、恋とは。

正直なところ、もはや自分にとって「恋」が何を意味する存在なのかよくわからないし、24歳にもなってそんなことで頭を悩ませている暇もなくなってきてしまった。学生の頃は何かに取り憑かれたかのように、常に好きな人に胸を焦がしていたが、いつか友人に言われてしまったように「恋しているという状態に気持ちよくなっている」だけだったのだろう。そう簡単に認めてしまうのは、18〜22歳の自分に申し訳ない気もするのだけれど。

それぐらい、当時の僕の生活は「衣・食・恋・住」で成り立っていた。もとよりそんなに器用な人間でもないし、どれかひとつ忘れてしまわないと時間も感情も失われてゆく社会人生活などやっていけなかっただろうから、今にして思えばちょうど良かったのかもしれない。

 

 あまりよく知らないその人のことを思い出そうとするのだが、一度会ったきりなので顔も正確には覚えていない。自分も相手もよく笑っていた(そうであってほしい、という願望も入っているかもしれない)のだけれど、何を話したのかもほとんど忘れてしまった。ただ、たまたま見つけて入った梅田の洋食屋さんのオムライスが美味しかったことだとか、ふらっと入った喫茶店で腰掛けた椅子が可愛らしかったこと、七月の日差しがとても眩しかったことなど、その一日の背景の断片的な記憶ばかりがやけに鮮明に、脳裏に貼り付いている。それでも、一日(正確に言えばほんの半日程度の邂逅だったのだが)を通しての感情が「楽しい」のその先にある「幸せ」に分類されるものだったということは確かで、恋らしきものを予感するには充分だった。

 

八月のはじめ、彼女に恋人ができたのだそうだ。

 僕自身はともかく、「彼女は自分のことを好きではなかった」或いは「彼女が自分以外の誰かを好きになった」というだけのことだ。そのことをごく自然に受け入れられるようになったのはいつからだろう。これは進歩なのか、それとも退化と呼ぶべきなのか、自分でもわからない。蕩火にかけた薬罐の水がなかなか沸点に達しないままに火を消されてしまうようなことが多くなった、と考えると、そもそも自分に起因しているのかどうかも判断が難しいところである。コンロのツマミを回しているのは果たして、誰なのだろうか?

ごく当たり前で、同時に残酷なことでもあるのだけれど、水とエタノールの沸点が異なるように、人によっても喜怒哀楽の沸点はそれぞれである。僕が「幸せ」を感じた瞬間瞬間が、彼女にとっては全くそうではないことだって当然ある(逆もまた然り、のはずなのだが、どうしてなかなか巧くはいかない)。ばらばらのはずの互いの沸点がうまく共鳴して仲良く過ごしている人たちを見ると、羨ましいと言うよりも単純に、すごいなと思う。いや、やっぱ羨ましいな。

 

 先日、家で素麺を茹でながら、江國香織の『神様のボート』を読んでいた。前日に夜通し飲み歩き、朝方に帰って昼過ぎまで眠りこけた時のことであった。家族は墓参りに行っていて、ほんのりと後ろめたさを感じながら白い麺を湯に潜らせていた。

『神様のボート』は恋に囚われた女とその娘の物語だ。恋に恋して掴めない影を追いかけて「旅がらす」を続ける女の様はあまりに情動的で、ひどく滑稽である。

姿を消した夫(父)との再会を果たすべく住いを転々とする二人が、高萩を離れるあたりまで読み進めたところで、素麺の鍋が噴きこぼれた。慌ててコンロの火を消すと、入道雲のようにもこもこと湧き上がっていた泡はしおらしく萎んでいったが、茹だった素麺は鍋の中で踊り狂っていた。

素麺くらいに簡単に沸かせたはずだったのだが、と思わずにはいられない。熱湯ごと素麺を笊に揚げると、眼鏡がサッと曇った。