ミュージック・キル・ユー!!

洗濯を終えて煙草を吸いながら缶ビールを飲んでいると、iTunesのシャッフルからCHARAの『あいのうた』が流れてきて、飲んでいた缶ビールの味が一気に濃くなってしまった。思わず友人からもらったミラーボールをつけてしまう。部屋が一気にメロウになる。ビールがさらに濃くなる。発泡酒のはずなのに、もはや麦芽をそのままバリボリ食ってるかのように、舌が錯覚してしまう。麦芽の食感を表す擬音語として「バリボリ」が適当なのか否か、僕は知らない。

上を見ればキリがないし、そもそも比べるものでもないのだが、まぁそこそこというレベルで音楽が好きだ。いろいろなジャンルのものを聴くほうだし、月並みな表現ではあるが音楽なるものに「救われた」経験もある。ひと夏で300回ぐらいチャットモンチーの『demo、恋はサーカス』を聴いたりしたこともある。この場合、「救われた」というより「殺された」と言うべきかもしれない。
「音楽の効能」なんて言うと大げさかもしれないけれど、音楽のおかげで友達が出来たり、人生における何気無いワンシーンが色を持つようになったり、まぁなんにせよ全く音楽に興味を持たないような状態よりも豊かな日々を送ることができているように思う。こういう思想は感覚的で必ずしも万人に当てはまるものではないし、興味がない人からすれば全く共感を得られるものではないのだろうが、元ゆらゆら帝国のフロントマンである坂本慎太郎は、タワーレコードの『NO MUSIC, NO LIFE?』ポスターで「音楽は役に立たない。役に立たないから素晴らしい。役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。」という言葉を残していて、「役に立たないから(こそ)素晴らしい」という感覚だけは人間が持ちうるひとつの真理なんじゃないかという気がしている。
こうした感覚はたとえばさっきまで吸っていた煙草にも言えることで、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは「喫煙」という行為について、著書で以下のような記述をしている(ちなみにこれはceroのあらぴーの受け売りであり、僕のアカデミズムではない)。

「(前略)喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から解放される。喫煙することで、人は仕事をしながらでも<生きる>ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ」

バタイユ 中山元訳 『呪われた部分 有用性の限界』 (2003) ちくま学芸文庫 p131~p132)


ある種語り尽くされているであろうこうした話はどうでもよくて、そんなことよりも「自分のお葬式で流したい曲」という面白いトピックがある。参列者が聴くばかりで、死を迎えた自分自身は聴くことができない、という場において自分がかけたい音楽に想いを馳せることは、たとえば「結婚式で流したい曲」を考えるよりもロマンチックであるように思える。
死ぬこととはまさに人生を終えること。その最期、人が自分の死を悼むとき、その空間を埋める「役に立たないもの」。それは口から漏れ出る紫煙のように、葬儀場の空間に満ちてゆくのだ。その音楽に想いを巡らせる。なんと自由で怠惰な時間だろう。

『あいのうた』、悪くないよなぁ。でもやっぱ、くるりの『ハローグッバイ』だなぁ。

さよなら三角、またきて七月

うかうかしていたらもう7月である。

すなわち、まる2ヶ月ブログをサボっていたということになる。サボタージュを生業とするサボリジニに成り果てているうちに、京都はじりじり熱気と湿気を蓄えており、気づけばクーラーのリモコンに手が伸びてしまうような季節になっていた。ちょっと前まで春の夜長がどうだのこうだのとほざいていたというのに。「うかうか」は人の時間感覚を狂わす非常に危険な状態であるということを学んだ(前回の投稿で発令された「自宅での単独飲酒に限り禁酒令」も、うかうかしているうちに反故にしてしまった)。

 

思い出したようにこうしてブログを書いているのは、ワールドカップの影響でもなければ歌丸師匠がお亡くなりになったからでもない(笑点メンバーでは小遊三師匠に次いで好きでした。合掌)。

京都に居を移して早くも5ヶ月が経とうとしている。当然と言えば当然だが、身の周りの環境がめちゃくちゃに変わっている。新しい友だちが何人かできたり、長い付き合いになる友人たちもいろいろと状況が変わったりしている。ようやく人生四半世紀目を迎えているわけだが、こんな落ち着きのない感じで大丈夫だろうか。そんな不安に襲われるときには必ず、心の中の川平慈英が「い~いんですッ!!ク~~ッ」と言い切ってくれるので僕はなんとか正気を保てている。とにもかくにもそれはそれで、(健康や生活力を切り売りしながら)面白おかしく過ごしている。

そんな折にふと、身体と時間は誰しも等しく有限だということに気づくのである。誰かといる時間が長くなると、必然的に他の誰かといる時間が短くなる。自分の世界を広げることは、世界の密度が薄く引き延ばされることのようにも思える。

 

昔、大学の先輩が「好きなもので繋がる人よりも嫌いなものが同じ人のほうが、付き合いが長く続く」と言っていたのを、ときどき思い出す。

同時に、それを聞いたときに、すごく「嫌だな」と思った記憶も蘇る。そのときの「嫌だな」は「そんなの嫌だな」であり、「瞬間的に『そうかも』と思ってしまった自分が嫌だな」でもあった。思い出すたびになんとなく、柑橘系の皮付近の苦いところによく似た後味の悪さが口に広がる。自分の意識下にこびりついた、呪いのようなものなのかもしれない。 

 

嫌いなものを共有することは、 後ろめたさを分け合うことだと思う。

何かを嫌うというネガティヴな感情を、「わたしも」と互いに持ち寄り確認しあい、優しく微笑み合うことは、ひとつの秘密の共有であり、危うい甘美さに溢れている。「罪」と名付けるには些か大げさであるが、ふたりを繋ぐその絆は一種の「共犯意識」と呼んでもよいのではないか。

友人関係にせよ恋愛関係にせよ、人と人とが関わりを持ち、それを長く続けることは確かに難しいのかもしれない。PUNPEEは『お嫁においで2015』で結婚について「紙切れに人生を簡単に契約するなんて…」というラインを書いたが、そんな頼りない書類一枚さえ介さない友情・愛情による繋がりというものは、よくよく考えてみればひどく曖昧な口約束のようにも思える。そういう意味では、件の先輩が「楽しみを持ち寄る関係」よりも「負の感情を分かち合う共同体」の方が離れにくいと言うのも、少なからず理解できる。そしてそれは、「離れられないしがらみ」と言ったほうが正確なんじゃないかとも想像している。

 

こういう心的な距離感を言い表すのは難しいのだが、自分の場合「またね」と言いたくなる人が身の周りに多い。「つかず離れず」というのとも違う気がする。収まりのいい言葉は見つからない。ただ、明日かひと月後か、はたまた何年後かはわからないが、朝日のように、季節のように、或いはハレー彗星のように、「またね」の「また」が必ず来るだろうという根拠のない確信が持てる相手がたくさんいる。実際に再会して飲んだり話したりできることと同じくらい、明確に約束するでもなく「今度遊ぼう」とか言い合える人々がいるということはけっこう幸福だ。

偶然にもこの7月は、そんな「また」が重なるひと月になる予定だ。かと言って、全然特別感のない再会である。ましてや天の川を隔てた人たちのようなロマンチックなものなどではない。まあ、どうせきっと楽しい話をするのだろう。次に会うのがいつになるのかわからなくても、僕は「またね」と別れたいのだ。

ワンルームで酒を断つ100の方法

どうにも面倒なことを約束してしまったな、と思う。
先日実家から母が我がワンルームの様子を見に来た時、缶瓶ゴミの多さにお叱りを受けてしまった。実際、一人暮らしを始めてから基本的にアルコールを入れない日はない、といった状況である(だが弁解したい、平日の夜などは350mlの金麦を一本というなんとも慎ましいレベルだ。しかもその日の母上の手土産はアサヒスーパードライである。狂人か?)。
とにかく酒の量を減らせというのが母の言い分であるが、これからの季節夜は短いし、木屋町を闊歩する我が乙女心は止められない。しかし実際、金晩〜土晩にかけて木屋町を千鳥足で練り歩くたびにあっちでちゃりん、こっちでちゃりんと随分お金を落っことし過ぎていることにも薄々気づいていた。先ず隗より始めよということで、本日より自宅での単独飲酒に限り禁止令が発布された。達也かよ。

時刻は23時過ぎ。2時間ほど前に白ご飯とめかぶ、唐揚げ、鯖缶をお茶で食した僕は現在ダウナーである。
今までだって平日の夜はほとんど一人でご飯を食べていたのだが、なぜか急に寂しい。酒を抜くとワンルームで「独り」が浮き彫りになる。
あと、ご飯を食べるペースが掴めない。今まで缶ビールを空けるペースに合わせて食事を口に運んでいたので、一口米を食べたあとに何を口に運べばいいのかわからなくなる。この現象、字面に起こすとまあまあヤバいな。
そして、ビールで腹が膨れていた分、何となく食が足りない気がしてしまう。しかし、一人の食事の寂しさを思い知ってダウナーな僕はあまりこれ以上食事を続ける気にもなれない。何この負のループ。

何より一番の問題は禁止令発布のタイミングである。キッチンの冷蔵庫を開けるたびに4本の缶ビール、先週開けたばかりの白ワインと目が合う。イカイカンと部屋に戻るとお土産の本格焼酎
責任者を呼べ。何故、ワンルームが各種甘露に満ち満ちた今、禁止令を発布したのだ。タバコを持ってる喫煙者が禁煙できるわけがなかろう。
明日はおそとで呑ませていただきます。

春の夜長とノスタルジック・ワンダーランド

「秋の夜長」なんて言葉があるけれど、実感としてはいまひとつピンと来ない。単純に、季節で一番夜が長いのは冬だ。まぁきっと、夏から秋にかけて陽が短くなるにつれ体感として夜が長くなることを指しているのだろう、ということはわかる。ただ、寒さにめっぽう弱い身としてはこの先に待ち構えている冬将軍のことを思い出し、ひたすらに憂鬱になるだけでその風情にまで頭が回らない。「秋の夜長」などセンチメンタルの起爆装置でもなんでもなく、業の深いダウナー誘引剤だと僕は断ずる。
その点、春はどうだろう。冬至を越えて陽も高くなってきたとはいえ、時間的な夜の長さは秋と同等と言っても差し支えない。「中秋の名月」のような季節ならではのコンテンツ?春には日本人がその美しさに心を動かされることがDNAレベルで約束されている「夜桜」がある。だいたい「中秋の名月」ってなんなんだ。月なら年中出ているではないか。
上記の理由から、僕は「秋の夜長」ではなく「春の夜長」を強く推したい。まだ少しばかり肌寒い夜の空気を感じながら、灯りに照らされた夜桜の儚い美しさに溜息をつきつつ、葉桜の頃に訪れるであろう麗らかなる日々を想う。これを「至福」と言わず何と言う。

「春の夜長」の楽しみかたについてお話しよう。ここまでの力説を読んで聡明な読者諸兄ならお気づきであろうが、僕は「『春の夜長』の楽しみかた」に一家言ある。ぜひとも以下の説明を参考に銘々、春の夜長を楽しんでいただきたい。
まずは服装について。日中すこし暑さを感じるくらい暖かくても、春の夜長は意外と冷え込む。油断せず、暖かめの格好をしよう(ストールなんかを巻くのもいいかもしれない)。また、靴はなるべく歩きやすいものを選ぼう。春の夜長はだんだん気分が良くなってくるので、ついついずんずん歩きたくなってしまうものだ。荷物は少なめが基本。手ぶらが理想だが、お財布や羽織ものを入れておくトートバッグなんかはあっても便利だと思う。
春の夜長にふさわしい恰好が整ったら家を出よう。ひとりでも複数人でも、春の夜長は買い出しからはじまる。最寄りのコンビニで缶ビールとお菓子、そして「写ルンです」を購入。お酒が苦手な人はノンアルコールの缶チューハイとかでもいいし、お菓子は個包装されていないゴミが出にくいものが望ましい……とかいろいろあるけれど、とにかく大事なのは「写ルンです」だ。800円ちょっとで買える、この24枚撮りのノスタルジック・メカを忘れてはいけない。

買い出しが終わればいよいよ春の夜長の本番。さっそく街へと繰り出そう。道路や川沿いの桜並木を見つけたら、そこで缶ビールのプルタブをぷしゅっと起こしてちびちび飲む。公園のベンチや橋の欄干など人の邪魔にならないところであれば、ちょっと腰掛けてチルアウトしてもいい。サチモスっぽく言えば”S. N. C. O(Spring Night Chill Out)”だ。そうしているうちに桜だけじゃなく、飲み屋街で千鳥足になっているオジサンたち、公園の水飲み場を陣取っているネコ、月極駐車場の看板に絡みつき花まで咲かせた「つる性」の植物、交差点の信号機に貼られたサンスクリット文字のステッカーなど、普段見過ごしているような街のノイズが春の夜長に中てられて、何らかの意味を持った色彩のように瞳に飛び込んでくるはずだ。
だんだん気分がエモーショナルになってくると、その瞬間を切り取りたくなるのが人の性だ。そこで取り出すのがスマホ、ではなく先ほどのノスタルジック・メカこと「写ルンです」である。親指でジーコジーコとシャッターを巻き、ファインダーを覗いてパシャリ。夜に屋外で撮る写真は、基本的にフラッシュを焚いておけばいい感じになる。寒くなってきたら居酒屋に行ってもいいし、喫茶店に駆け込んでもいい。店内でも迷惑にならない程度に、感じるままにシャッターを切ろう(フラッシュは切っておいたほうが無難だ)。24枚撮りきったら、今宵の春の夜長はお開きである。
翌朝目覚めたら、なるべく早めに現像に出そう。春の夜長の蠱惑的なテンプテーションによる一種の興奮が冷めやらぬうちに写真を確認した方が面白いし、うかうかしていると初夏が来てしまい、春の夜長の風情が薄れてしまう。現像するかスマホにデータ転送するか選べるが、おススメは現像である。広くSNSなどでデジタルに共有するより、春の夜長を共に過ごした者同士(或いは一人で過ごした自分だけで)アナログに秘密を分かち合うほうが、春の夜長の記憶は甘美に熟れてゆく。

春から夏にかけて、夜は短くなっていく。次第に肌寒さも薄れ、春の夜長は蒸し暑い熱帯夜へと移り変わる(熱帯夜は熱帯夜で面白いんだけど)。今のこの時期にしか愉しめない春の夜長を、ぜひ皆さんにも味わっていただきたい。最初は真っ暗だったりあんまりうまく撮れていないものばかりだけれど、そのうち時々ハッとするほどいい写真が撮れててニヤニヤしてしまう瞬間がある。あと、二、三枚なんでこんなの撮ったんだっけみたいな訳の分からない写真があって、とても笑える(否、趣き深い)。

春と三段論法

一体それがどのような根拠に基づいて語られているのかはさっぱりわからないが、人は自分の生まれた季節を好きになるものなのだという。自分は冬生まれで冬が大嫌いである。すなわち、僕はヒトではないのかもしれない。
己が何者かさえ知らぬサムシングにもこの街はやさしい。先週酒場で知り合った女の子にフワッとした約束を取り付けられながら、行くも帰るも出来ぬままフラフラしている僕にすら立ち飲み屋の門戸は開かれている。羽虫を誘う害虫灯の火のように、赤提灯が燃える。



僕によく似た(似てないかもしれない)トラックメーカーは昔「友達は誘ってくれるよ ああ」と歌った。何気ないやり取りから不意に飲みに誘ってくれたのは彼女だ。すなわち、彼女は友達なのだろう。
蟹味噌とハイリキを舐めながら誘われた口上を反芻する。気遣いたっぷりの文章に温度がない。自分に気のない女の子が大好きだ。オススメされた映画を観たりする虚無な時間も愛おしい。真っ当な恋路を歩むためのなにかはAとBの狭間で零れ落ちてしまったのだ。



常日頃から詰まっている鼻の詰まりが一層酷い。ついに花粉症デビューかとも思ったが、前頭葉の鈍い重みという花粉症らしからぬ症状も少々。すなわち、おそらく風邪をひいている。
今日に限っては風邪をひいて居たくないので、俺は花粉症だと暗示をかけて呑んでいる。そうすると頭の鈍痛もうっすら早めに酔いが回ったかのように錯覚するので、プラシボも馬鹿にはできない。まず、土曜日に飲むなと言うのがどだい無理な話なのである。



大学時代の友人たちはおおかたみんな恋人がいるのだそうだ。そんな話を大学時代の友人から聞いた。すなわち、彼女は僕の大親友なのだろう。
人生などという人間にとって最大の尺度の時間軸を、僕は上手く認識できない。明日の予定さえもちゃんと立てられない。このままいけば金曜日の洗濯物も日曜日の夜まで干しっぱなしだ。女の子はみんな先のことを考えるのが得意そうに見える。設計士とかって、女性のほうが向いてる職業なんじゃないだろうか。



強いかどうかは置いておいて、僕はお酒をまあまあ呑む。暖かくなればビールが美味い。すなわち、僕は春が大好きだ。
鴨川にはヌートリアと綺麗な菜の花が現れることを、何年も前に知った。あの一日は奇跡みたいだったということを僕は何年経っても覚えているんだろうけど、その日のことを春の最中には不思議と思い出さなかった。それはそれで良い春を過ごしてきたのだろう。



そうこう言ってるうちに、男から連絡が来た。僕が虚無感に苛まれている時、だいたいヤツから連絡が来る。すなわち、ヤツも大親友なのだろう。

一緒にふるえてよ

「ラブコメディ」なるジャンルが嫌いだ。なんなら憎い。

直訳すれば「恋愛喜劇」とでもなるのだろうか。自身のそれほど多くもない(決して少なくもない)恋愛譚を振り返ってみれば、思い浮かぶのはほとんど悲劇ばかりだ。ゆえに、ストーリーに共感したり登場人物に感情移入できない。
恋愛ってそんな爽やかなもんなのか?
グラスに輪切りのレモンが刺さったメロンソーダのように、柑橘系の香りと共に口の中でシュワシュワ泡立ち弾けるようなもんなのか??
じゃあ僕が今まで涙目になりながら飲み下してきたアレはいったい何だと言うのか???
青汁か????
ゔんん、不味い!もう一杯!!

とにかく青汁のエグ味に慣れきった僕の前にメロンソーダなんかを出されても、胃も脳みそも受けつけないのだ。だいたい喜劇って時点でハッピーエンドが約束されているではないか。他人のノロケ話と校長先生の挨拶ほど退屈なものはないと昔から相場が決まっている。だから、もし僕が映画のポスターに小さく書かれた「暴走ラブコメディ」の文字を見つけていたら、日本中の女子の共感を欲しいままにする某歌姫へのアンチテーゼとも取れるタイトルのこの映画を観ることは、無かったかもしれない。

いつか読まなくてはと漠然と思っていた綿矢りさの原作小説を手に取る前に、友人に誘われて観に行った。ネットでも良い評判をちらほら目にしていたし、特に断る理由もなく2時間半をスクリーンの前で過ごした(彼女と観る映画はなぜだか決まって長尺なものばかりだ)。


24歳のOLヨシカは、中学の同級生であるイチを10年間片想いし続け、疎遠になってからも(そもそも仲良くもなっていない)数少ないイチとの思い出を蘇らせては独り悶える日々を過ごしていた。そんなある日、会社の同僚であるニから猛烈なアピールを受け、遂には告白される。全くタイプではないニの猪突猛進な愛情表現に辟易しつつも、人生初のアバンチュールの気配に浮かれるヨシカ。しかし、ひょんなことから妄想片想いの相手であるイチと再会する好機を掴み・・・というあらすじ。

映画はヨシカ(松岡茉優)の独白から始まる。ハンバーガーショップのウエイトレスに、ただひたすらに話しかける。顔を付き合わせて、目と目を合わせて。

「本能のままにイチと結婚しても絶対幸せになれない。結婚式当日もイチが心変わりしないようにって、野蛮に監視役続けてなくちゃならない、そんなんで幸せなんて味わえるかよ。その点ニならまるでひと事みたいにお式堪能できちゃう。ドレスのままチャペルから何だか知らんが丘駆け下りてわがままにニのこと放ったらかして、波と戯れたりデコルテあらわなドレスで肩上下させてハーハーしたりして花嫁タイムをエンジョイできちゃう」

冒頭の語りからフルスロットルで迫ってくるヨシカのイタさ、捻くれっぷり。最寄駅の駅員さん、コンビニエンスストアの店員さん、堤防で釣りをするおじさんにも、のべつ幕無しにベラベラ話しかける。
滔々と吐露されるセリフはラブコメディのヒロインが持つべき純真さ、素直さ(偏見)からはおよそかけ離れた、ぐずぐずに膿みきった謂わゆる「こじらせ女子」の心情であり、ラブコメディを毛嫌いする僕の歪んだ視線と重なり合う(その視線は好きな人を直視できずに視界の端でこっそり伺うような、まさにヨシカの言う「視野見」である)。

だけど、本当はヨシカも幸せになりたいだけなのだ。好きな人の瞳に映りただ認知してもらうという、それだけのことで、自己肯定感の低い人間は幸せになれる。だからヨシカは涙を瞳に溜めて言う。
「それでもやっぱり、イチが好き」


だけどそれは奥ゆかしさでもなんでもなく、ただの「臆病と不遜」なのだ。
やがてイチとの再会を果たしたヨシカはふたりで朝焼けを見ながら絶滅していった生き物たちの話をし、そして自分がかつて息を潜めてイチを視界の端に捉えていたことを告げる。しかし、視界の端で見ているだけでは本質は映らない。
みんなから人気の王子様のように見えていたイチは、実はいじめられていて苦痛を感じていた。そして同様にイチもまた、まったくヨシカを認知していなかったのだった。

10年来片想いしてきた相手に名前すら覚えられていないという現実。と同時に、ここまでヨシカが親しげに話しかけてきた街の人々も、じつはヨシカが妄想の中で会話していただけなのだということが明かされる。
このヨシカの脳内→現実世界の暗転具合がものすごい。あんなにコミカルだったのにヨシカに一瞥もくれない釣りおじさんとか。そんなんありかよ。


「ラブコメディ」と銘打たれているだけあって(?)、ラストはなんとなくハッピーエンドで終わる。いや確かにあれは、ハッピーエンドなんだろうけど、どうにも僕は悲しくなってしまった。
ひとの気持ちを理解することは難しい。難しいなりに(全体の何割かを)理解することはできる。そしてその先に「わかる、自分もそうだよ」と共感できたり「わかるけど、それはないな」と共感できなかったりするフェーズがあるのだ、と思っている。
しかし、この後半にかけてのヨシカの言動はなかなか理解に苦しむものばかりだ。なのに自分がヨシカならそうしてしまうような気がしてならない(これを「ねじれの感情移入」と呼びたい)。
もはやこのねじれの感情移入に関しては、ストーリー云々以上に松岡茉優の迫真の演技によるものだと言って差し支えないだろう。

自己中心的で、一方的で、ひねくれていて。言語化すれば明らかなように、ヨシカにはおよそいいところがない。
それなのにどこか可哀想な気持ちになってしまうのは、誰もが持ちうる自分の心の熟れすぎてグズグズになった膿のような部分を重ね合わせてしまうからだろう。
治癒力には個人差があって、そういう心の腐りの治りが遅い僕のような人種にとってはひどく心をふるわされてしまったのだ。

それはお前に同情してのことだよと言っても、うるせぇ、勝手にふるえてろ、と言われてしまうんだろうけど。

新年の挨拶における退屈な手続き

年が明けた。

 

「年が明けた。」という書き出しが些か滑稽に感じるくらい(誰も2018年を2017年と書き間違えることもないくらい、と言い換えてもよい)にはもう既に2018年は進んでいるのだが、とにかく一つの事実として年が明けた。「一年の計は元旦にあり」なる諺が古くから伝わるように、年の始まりである元旦は何かしら一年の計画を立てたり新しいことを始めるには絶好のタイミングであると言えよう。何もなければただの地続きの日常と変わらない一日が特別な区切りになるのだから、暦という概念はすごい。

 

かく言う自分もギリギリ人の子なので、まあ年も明けたし新しいことしてみるかということで、今まで避けてきた「レビュー」を書く。

もともと本・音楽・映画など目や耳で受容する嗜好品が好きで、じっさい何度かお気に入りの作品の話を書こうと思ったりもしたが、なんとも恐ろしいことに身の回りには僕なんかよりもずっと詳しい人ばかりなのだ。映画には映画の、音楽には音楽のギークどもが多すぎて、別に奴らのために書いてるわけでもないのだが、およそ彼らの目に触れて耐え得るレベルの関連知識や作品に隠されたテーマを記号的に分解し紐解けるような考察力は僕には無く(特に映画フリークの友達は何故あんなにおもしろいレビューが書けるのだろう、おすぎがゴーストライターなのか?)、そのことを思うとタイプする両手の五指(或いはフリック入力する左手の親指)の震えが止まらないのだった。

とはいえ、二月からの新しい仕事の核は「プロダクトについての魅力を文章で伝える」ことなので、対象についての造詣を深く持ち、価値を掘り下げて言葉に落とし込む作業からは逃れられない。そのための地肩をつくるべく、自分が心を動かされたものについてその理由を言語化する練習のつもりでやってみようと思う。たぶん、レビューと呼べるほど立派なものにはならないけれど。