春眠、見た夢を覚えず

人工的な暦で三月を迎えて二週間、ようやく季節の移ろいを感覚として感じられるようになってきた。
カレンダーをめくって現れた数字を見て「もう春か」と思っていたのもつかの間、いつの間にか寝起きのフローリングの冷たさが和らぎ、マスクの意義がインフルエンザ予防から花粉対策へと変わり、午後の陽射しに欠伸が止まらなくなり、気づけばすっかり春の只中に居ることを知る。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、この甘ったるい眠気は社会生活を営むうえで非常に迷惑ではあるが、また幸福でもあるのはおそらく天国に一番近い季節だからなのだろう。ヨーロッパの聖堂などによくある絵画に描かれる天界の様は、花が咲き乱れ鳥が唄う、春そのものの景色である。

同時に春の色香は蠱惑的である。ある種の悦びを湛えたこの開放的な陽気は、動物たちを冬眠から目覚めさせ、生命活動を活性化させる。人間も等しく活性化させられ、蕾が綻びて中から花弁が零れるように、各々の内内に秘めた欲求の箍をはらりと解き、春を「恋の季節」たらしめる。根源的な部分で言えば、偏に川辺で盛る鴨の番と何ら変わらない。
「恋の季節」に収まっているうちはまだ良いが、悪魔的とも言える春のテンプテーションは人々を惑わせ、街に変質者をぬらりと産み落とす。よもやバーバリーも自社のスプリングコートがこんなにも裸を覆い隠して出歩くのに適しているとは思いもよらなかったことだろう。

春の気色は様々な感度を昂らせるのだろう、出逢いや別れの期待、不安、感傷もすべて、不思議と他の季節以上に押し寄せてくる。
たぶん、僕たちはみんな春という夢を見ている。脳を発達させ、独自の進化を遂げてきた人間は、冬眠するかわりに春眠するのだ。浮ついた気持ちも、どこか心許ない足元も、すべて春の夜の夢の中だからだ。いつまでも夢の中に居たいのだが、やがて暖かさは寝苦しい暑さにかわり、春眠に堕ちた時と同じように、知らぬ間に春眠から覚めるのだ。そこには世界を濡らし、焼き尽くす夏がある。

電車に乗っている。となりの席ではサラリーマンがiPodを聴きながら鼻唄を歌っている。上手なのだが、その歌を僕は知らない。通過した駅のホームに佇む、矢羽根文様の着物を着た女子大生を見た。卒業式終わりで、これから追い出しコンパなのだろうか。彼女もきっと、帰りの電車で泣くのだろうか。