パンを焼くという儀式について
我が家に新しいオーブントースターが来たのは夏の暮れで秋のはじまり、かれこれもう3ヶ月近く前のことになる。
モスグリーンと言うべきかミントグリーンと言うべきか、なんとも形容しがたい「緑っぽい」色合いと、電化製品らしからぬ丸みを帯びたフォルムが特徴的だ。
詳しい性能のことはよく知らないが、毎日のトーストが美味しくなったと家族はえらく重宝している。
確かに、その日以来パンを齧るときの「ザクッ」が小林聡美のそれに近づきつつある気がしないでもない。
「料理」の定義を、切るだのかき混ぜるだの熱を加えるだの、食べられない状態(大きすぎる、美味しくない、毒がある など)から食べられる状態(食べやすい、美味しい、安全に食せる など)にする行為を施した食材、と仮定するのであれば、トーストは最も簡単な「料理」のひとつと言えよう。
オーブントースターに食パンを放り込んでタイマーをセットするだけという、簡略を極めたその行為は、調理というより作業に近い。
デザインや性能が変われど、トースターに対して我々が期待する役割はひとつ(同時にとてもシンプルである)、美味しくパンを焼くことであり、それ以上でも以下でもない。
それに応じるように、彼らトースターの姿は美味しいパンを焼くのに適切な形状・機能を有しており、うちの新しいトースターも例に漏れず、彼に備わった機能を適切なかたちで「美味しいパンを焼く」という使命を果たすべく黙々と(時折「チン」と誇らしげな合図を鳴らし)行使している。
我が家の朝食はほぼほぼパン食である。
時々ご飯、若しくは菓子パンやコーンフレークなど、トースターによる「調理」を介さず食べられるものも儘出てくるが、大抵はピーナツバター、或いはアオハタのブルーベリージャムを塗ったトーストを食す。
こうした一日の始まりのルーティンは、イチローの朝カレーほどの意味合いも生産性も無いが、ある種儀式的である。
目が覚めて、スリッパを履き、顔を洗い、口を濯ぎ、食パンをトースターに置き、ツマミを捻る。
別に願をかけているわけでも無いが、トースターの窓を開いて焦げたトーストが出てくるとなんとなく不吉な予感がしてしまう。
下駄の鼻緒が切れたとき、太陽に虹の輪がかかるとき、黒焦げのトーストが出てきたとき。
食パンひとつ満足に焼けない自分に辟易してしまう、そんな日もある。
でも、誰だってなにかを失敗する。
そんな日もあるのだ。たかがそんな日だ。
そんな一日の始まりには、ザクザクと焦げたパンを齧り、ミルクコーヒーで飲み下すのだ。
パンを焼くような単純なことすら失敗してしまう僕たちだ。
世の中に溢れる複雑な由無し事、失敗して当然だ。
どうか、僕が、僕の失敗を許せますように。
そんな祈りを込めてツマミを捻る。
トースターが「チン」と音を立て、窓を開けて見るまでパンがうまく焼きあがってるかどうかはわからない。
シュレーディンガーのパン、と言うには些か大袈裟な思考実験だ。
焦げていたら、いつもよりたっぷりブルーベリージャムを塗るのだ。