思夏期のころ

小説にせよ個人のブログにせよ、人の文章を読むということは自分にとって実りの多い趣味のひとつだ。

文筆家による書籍やライターによるコラム・インタビュー記事などはもとより、表現の場においても誰もが気軽に文章を書き、公に発信できるプラットフォームが整っているおかげで、たまたま目にした顔も知らないような人の文章にもドキッとさせられたりするような素敵な世界だ。

改めて口にするまでもないことではあるが、そういう場としてのブログはとてもおもしろい。

 

ブログを書くことは億劫だ。

誰がこうしろと言ったわけでもないが、暗黙の了解としてブログの読み手は「日常、その他周辺の由無し事の記録」的役割を想定してしまうので、必然的に書き手も自分で設定したテーマ(≒タイトル)に沿ったそれ相応のボリュームの文章を、と腹部は臍より少し下あたりの丹田に力を込めてブログを書いてしまう(そもそも、ひと言で済むような刹那的な発言をしようとブログを始める人はかなり珍しいのではないか)。

だが、その面倒くささを抱えてでも書きたいことがあるから、人はブログを書く。そんな熱量のある文章は、どんなくだらないトピックであろうが読んで実りがないわけがない。

 

最近、身の回りの友達もぽつぽつとブログを書く人が増えてきた。見ず知らずの他人だからこそおもしろい文章もあるが、書き手の人となりをよく知っているからこそおもしろい文章もある。

自分のブログを読み返すと、よくもまぁこんなどうしようもないことを恥ずかしげもなく書き晒したものだとうんざりすることが十中七億ぐらいの確率であるが、案外友達も皆、僕と似たり寄ったりなどうしようもなさに溢れたことを書いているものだ(ごめんね)。

それを読んで、そんなもんだよなと笑ったり、あんなによく喋ってたのにその実苦しんでいたということに気づいてあげられてたのだろうかと悲しくなったりする。

友達の、今まで感じられなかった熱量にあてられる。その感覚が愛おしい。

 

遠い昔に思春期を終えたはずなのに、今でもみんなくるくるもがいたり、ぼんやりつまずいている。大人になったら好き嫌いなんか無くなってなんでも食べられるようになると思っていたのに、大人になるにつれ嫌いなものが増えてしまった気がする。ひとつうまくやり過ごせることが増えるたび、ひとつ何かがヘタクソになる。

こういうもの煩いや鬱屈とした気持ちの動きに「思春期」だなんて恥ずかしい名前をつけて、春という季節に閉じ込めた先人はズルいな、と思う。

季節は地続きだ。歳をとれども悩ましい思いが尽きることなどあるはずもない。

 

先日、24歳になった。

その一日で変わることなど何ひとつない。23歳最後の夜に浴びるほど飲んだ酒も、24歳最初の朝に二日酔いというかたちでしっかり引き継がれていた。

孔子は「四十にして不惑」と言った。

アホか。不惑などそれこそ人間の終わりだ。

いつまでも惑わせろ。

俺はまだ思夏期に入ったばかりだ。