薬罐を火にかけ八月を沸かして

夏なのでまた、失恋をした。

あまりにささやかな恋だったので、正直なところ「恋」と呼べる代物かどうか定かではない。そもそも「好き」だったのかどうかも、今となっては随分あやふやなのだが、一抹の寂しさと喪失感になぜかホッとしているこの感覚は、学生時代に何度となく味わった「それ」に近いのも確かである。

 

ところで、恋とは。

正直なところ、もはや自分にとって「恋」が何を意味する存在なのかよくわからないし、24歳にもなってそんなことで頭を悩ませている暇もなくなってきてしまった。学生の頃は何かに取り憑かれたかのように、常に好きな人に胸を焦がしていたが、いつか友人に言われてしまったように「恋しているという状態に気持ちよくなっている」だけだったのだろう。そう簡単に認めてしまうのは、18〜22歳の自分に申し訳ない気もするのだけれど。

それぐらい、当時の僕の生活は「衣・食・恋・住」で成り立っていた。もとよりそんなに器用な人間でもないし、どれかひとつ忘れてしまわないと時間も感情も失われてゆく社会人生活などやっていけなかっただろうから、今にして思えばちょうど良かったのかもしれない。

 

 あまりよく知らないその人のことを思い出そうとするのだが、一度会ったきりなので顔も正確には覚えていない。自分も相手もよく笑っていた(そうであってほしい、という願望も入っているかもしれない)のだけれど、何を話したのかもほとんど忘れてしまった。ただ、たまたま見つけて入った梅田の洋食屋さんのオムライスが美味しかったことだとか、ふらっと入った喫茶店で腰掛けた椅子が可愛らしかったこと、七月の日差しがとても眩しかったことなど、その一日の背景の断片的な記憶ばかりがやけに鮮明に、脳裏に貼り付いている。それでも、一日(正確に言えばほんの半日程度の邂逅だったのだが)を通しての感情が「楽しい」のその先にある「幸せ」に分類されるものだったということは確かで、恋らしきものを予感するには充分だった。

 

八月のはじめ、彼女に恋人ができたのだそうだ。

 僕自身はともかく、「彼女は自分のことを好きではなかった」或いは「彼女が自分以外の誰かを好きになった」というだけのことだ。そのことをごく自然に受け入れられるようになったのはいつからだろう。これは進歩なのか、それとも退化と呼ぶべきなのか、自分でもわからない。蕩火にかけた薬罐の水がなかなか沸点に達しないままに火を消されてしまうようなことが多くなった、と考えると、そもそも自分に起因しているのかどうかも判断が難しいところである。コンロのツマミを回しているのは果たして、誰なのだろうか?

ごく当たり前で、同時に残酷なことでもあるのだけれど、水とエタノールの沸点が異なるように、人によっても喜怒哀楽の沸点はそれぞれである。僕が「幸せ」を感じた瞬間瞬間が、彼女にとっては全くそうではないことだって当然ある(逆もまた然り、のはずなのだが、どうしてなかなか巧くはいかない)。ばらばらのはずの互いの沸点がうまく共鳴して仲良く過ごしている人たちを見ると、羨ましいと言うよりも単純に、すごいなと思う。いや、やっぱ羨ましいな。

 

 先日、家で素麺を茹でながら、江國香織の『神様のボート』を読んでいた。前日に夜通し飲み歩き、朝方に帰って昼過ぎまで眠りこけた時のことであった。家族は墓参りに行っていて、ほんのりと後ろめたさを感じながら白い麺を湯に潜らせていた。

『神様のボート』は恋に囚われた女とその娘の物語だ。恋に恋して掴めない影を追いかけて「旅がらす」を続ける女の様はあまりに情動的で、ひどく滑稽である。

姿を消した夫(父)との再会を果たすべく住いを転々とする二人が、高萩を離れるあたりまで読み進めたところで、素麺の鍋が噴きこぼれた。慌ててコンロの火を消すと、入道雲のようにもこもこと湧き上がっていた泡はしおらしく萎んでいったが、茹だった素麺は鍋の中で踊り狂っていた。

素麺くらいに簡単に沸かせたはずだったのだが、と思わずにはいられない。熱湯ごと素麺を笊に揚げると、眼鏡がサッと曇った。