春の夜長とノスタルジック・ワンダーランド

「秋の夜長」なんて言葉があるけれど、実感としてはいまひとつピンと来ない。単純に、季節で一番夜が長いのは冬だ。まぁきっと、夏から秋にかけて陽が短くなるにつれ体感として夜が長くなることを指しているのだろう、ということはわかる。ただ、寒さにめっぽう弱い身としてはこの先に待ち構えている冬将軍のことを思い出し、ひたすらに憂鬱になるだけでその風情にまで頭が回らない。「秋の夜長」などセンチメンタルの起爆装置でもなんでもなく、業の深いダウナー誘引剤だと僕は断ずる。
その点、春はどうだろう。冬至を越えて陽も高くなってきたとはいえ、時間的な夜の長さは秋と同等と言っても差し支えない。「中秋の名月」のような季節ならではのコンテンツ?春には日本人がその美しさに心を動かされることがDNAレベルで約束されている「夜桜」がある。だいたい「中秋の名月」ってなんなんだ。月なら年中出ているではないか。
上記の理由から、僕は「秋の夜長」ではなく「春の夜長」を強く推したい。まだ少しばかり肌寒い夜の空気を感じながら、灯りに照らされた夜桜の儚い美しさに溜息をつきつつ、葉桜の頃に訪れるであろう麗らかなる日々を想う。これを「至福」と言わず何と言う。

「春の夜長」の楽しみかたについてお話しよう。ここまでの力説を読んで聡明な読者諸兄ならお気づきであろうが、僕は「『春の夜長』の楽しみかた」に一家言ある。ぜひとも以下の説明を参考に銘々、春の夜長を楽しんでいただきたい。
まずは服装について。日中すこし暑さを感じるくらい暖かくても、春の夜長は意外と冷え込む。油断せず、暖かめの格好をしよう(ストールなんかを巻くのもいいかもしれない)。また、靴はなるべく歩きやすいものを選ぼう。春の夜長はだんだん気分が良くなってくるので、ついついずんずん歩きたくなってしまうものだ。荷物は少なめが基本。手ぶらが理想だが、お財布や羽織ものを入れておくトートバッグなんかはあっても便利だと思う。
春の夜長にふさわしい恰好が整ったら家を出よう。ひとりでも複数人でも、春の夜長は買い出しからはじまる。最寄りのコンビニで缶ビールとお菓子、そして「写ルンです」を購入。お酒が苦手な人はノンアルコールの缶チューハイとかでもいいし、お菓子は個包装されていないゴミが出にくいものが望ましい……とかいろいろあるけれど、とにかく大事なのは「写ルンです」だ。800円ちょっとで買える、この24枚撮りのノスタルジック・メカを忘れてはいけない。

買い出しが終わればいよいよ春の夜長の本番。さっそく街へと繰り出そう。道路や川沿いの桜並木を見つけたら、そこで缶ビールのプルタブをぷしゅっと起こしてちびちび飲む。公園のベンチや橋の欄干など人の邪魔にならないところであれば、ちょっと腰掛けてチルアウトしてもいい。サチモスっぽく言えば”S. N. C. O(Spring Night Chill Out)”だ。そうしているうちに桜だけじゃなく、飲み屋街で千鳥足になっているオジサンたち、公園の水飲み場を陣取っているネコ、月極駐車場の看板に絡みつき花まで咲かせた「つる性」の植物、交差点の信号機に貼られたサンスクリット文字のステッカーなど、普段見過ごしているような街のノイズが春の夜長に中てられて、何らかの意味を持った色彩のように瞳に飛び込んでくるはずだ。
だんだん気分がエモーショナルになってくると、その瞬間を切り取りたくなるのが人の性だ。そこで取り出すのがスマホ、ではなく先ほどのノスタルジック・メカこと「写ルンです」である。親指でジーコジーコとシャッターを巻き、ファインダーを覗いてパシャリ。夜に屋外で撮る写真は、基本的にフラッシュを焚いておけばいい感じになる。寒くなってきたら居酒屋に行ってもいいし、喫茶店に駆け込んでもいい。店内でも迷惑にならない程度に、感じるままにシャッターを切ろう(フラッシュは切っておいたほうが無難だ)。24枚撮りきったら、今宵の春の夜長はお開きである。
翌朝目覚めたら、なるべく早めに現像に出そう。春の夜長の蠱惑的なテンプテーションによる一種の興奮が冷めやらぬうちに写真を確認した方が面白いし、うかうかしていると初夏が来てしまい、春の夜長の風情が薄れてしまう。現像するかスマホにデータ転送するか選べるが、おススメは現像である。広くSNSなどでデジタルに共有するより、春の夜長を共に過ごした者同士(或いは一人で過ごした自分だけで)アナログに秘密を分かち合うほうが、春の夜長の記憶は甘美に熟れてゆく。

春から夏にかけて、夜は短くなっていく。次第に肌寒さも薄れ、春の夜長は蒸し暑い熱帯夜へと移り変わる(熱帯夜は熱帯夜で面白いんだけど)。今のこの時期にしか愉しめない春の夜長を、ぜひ皆さんにも味わっていただきたい。最初は真っ暗だったりあんまりうまく撮れていないものばかりだけれど、そのうち時々ハッとするほどいい写真が撮れててニヤニヤしてしまう瞬間がある。あと、二、三枚なんでこんなの撮ったんだっけみたいな訳の分からない写真があって、とても笑える(否、趣き深い)。