ミュージック・キル・ユー!!

洗濯を終えて煙草を吸いながら缶ビールを飲んでいると、iTunesのシャッフルからCHARAの『あいのうた』が流れてきて、飲んでいた缶ビールの味が一気に濃くなってしまった。思わず友人からもらったミラーボールをつけてしまう。部屋が一気にメロウになる。ビールがさらに濃くなる。発泡酒のはずなのに、もはや麦芽をそのままバリボリ食ってるかのように、舌が錯覚してしまう。麦芽の食感を表す擬音語として「バリボリ」が適当なのか否か、僕は知らない。

上を見ればキリがないし、そもそも比べるものでもないのだが、まぁそこそこというレベルで音楽が好きだ。いろいろなジャンルのものを聴くほうだし、月並みな表現ではあるが音楽なるものに「救われた」経験もある。ひと夏で300回ぐらいチャットモンチーの『demo、恋はサーカス』を聴いたりしたこともある。この場合、「救われた」というより「殺された」と言うべきかもしれない。
「音楽の効能」なんて言うと大げさかもしれないけれど、音楽のおかげで友達が出来たり、人生における何気無いワンシーンが色を持つようになったり、まぁなんにせよ全く音楽に興味を持たないような状態よりも豊かな日々を送ることができているように思う。こういう思想は感覚的で必ずしも万人に当てはまるものではないし、興味がない人からすれば全く共感を得られるものではないのだろうが、元ゆらゆら帝国のフロントマンである坂本慎太郎は、タワーレコードの『NO MUSIC, NO LIFE?』ポスターで「音楽は役に立たない。役に立たないから素晴らしい。役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。」という言葉を残していて、「役に立たないから(こそ)素晴らしい」という感覚だけは人間が持ちうるひとつの真理なんじゃないかという気がしている。
こうした感覚はたとえばさっきまで吸っていた煙草にも言えることで、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは「喫煙」という行為について、著書で以下のような記述をしている(ちなみにこれはceroのあらぴーの受け売りであり、僕のアカデミズムではない)。

「(前略)喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から解放される。喫煙することで、人は仕事をしながらでも<生きる>ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ」

バタイユ 中山元訳 『呪われた部分 有用性の限界』 (2003) ちくま学芸文庫 p131~p132)


ある種語り尽くされているであろうこうした話はどうでもよくて、そんなことよりも「自分のお葬式で流したい曲」という面白いトピックがある。参列者が聴くばかりで、死を迎えた自分自身は聴くことができない、という場において自分がかけたい音楽に想いを馳せることは、たとえば「結婚式で流したい曲」を考えるよりもロマンチックであるように思える。
死ぬこととはまさに人生を終えること。その最期、人が自分の死を悼むとき、その空間を埋める「役に立たないもの」。それは口から漏れ出る紫煙のように、葬儀場の空間に満ちてゆくのだ。その音楽に想いを巡らせる。なんと自由で怠惰な時間だろう。

『あいのうた』、悪くないよなぁ。でもやっぱ、くるりの『ハローグッバイ』だなぁ。