夏になると僕は

随分と更新が滞ったが、直近のブログの内容的になんとなく「あぁ、これが平成最後のブログだったんだな」みたいな雰囲気が出せたのでセーフとしておく。させておくれ。

心を亡くすと「忙」しい、なんてこじつけめいた、巧く言ってやった風な言葉があるが、最近は心そのものが忙しかったような気がする。
やりたいこととできないこと、求められていることとそうでないこと。それら両極の間は遠く隔たっていて、座標の極点と極点の間を僕は動点Pが如く浮き沈みしながら漂っている。不安定さに包まれた所在無げなこの感覚は、宇宙を遊泳しているようで不思議と心地良い。命綱の絶たれた宇宙飛行士たる僕は、母なる地球を眺めてなんとか正気を保とうとしている。

5ヶ月空くだけでどのように更新していたのか迷子になってしまう程度には、ブログというものは難しい。
直近のことを書こうと思い至るのは映画『愛がなんだ』を観たことだ。作品を鑑賞する前にある程度の酒を煽っていたこともあってか、序盤30分でまあまあ吐きそうになった。
「愛がなんだ」という捨てゼリフのような言葉を吐くには「愛とはなんだ」という問いへの答えを求めなければならないのだが、有史より多くのホモ・サピエンスが直面してきた命題は、どうやら令和を迎えた今日に至るまで解決を迎えてはいないらしい。男と女、男と男、女と女、エトセトラ。情愛というものが多様化を極めた現代において、一つの解を見出すということは半ば不可能に近いのかもしれない。それでも、人々は各々の関係性において最も解と呼ぶにふさわしい結論を求め七転八倒する。その過程にこそ「愛」という名をつけて愛で育んでいくべきものなんじゃないか。結論めいたことを宣うわりに、僕だって聞きたい。どうして皆そんなにも容易く誰かを「好き」とか「愛してる」とか認められるのだろう。いや、きっと本当はもっと単純な気持ちの動きなのだ。それを勝手に、ややこしく捏ねくり回して手垢をつけまくって汚してしまっているのは自分自身だ。

考えても埒の明かないこととカレーは寝かすに限る。最近久々にキーマカレーを作って気づいたが、どうにも手際が良くなっている気がする。今日はオムライスを作ってみたのだが、これまた初めてにしてはそれなりに形になっている。愛憎込めて「ブス飯」なる名をつけていた自炊料理が、そこそこ上達しているのだ。「継続は力なり」をここまでストレートに体感したのはいつ以来だろうか。
反比例するように、長らく筆を置いていたブログ及び文章はへたへたへたっぴ(©サンリオ)になっている。だがまぁ、今年もまた美しい季節がやってくるのだから、僕はまたつらつらと文章を書き列ねはじめるのだろう。絵も描けぬ写真も撮れぬ自分の心を揺らした瞬間を留めておく方法など、これしか知らないのだから。