夜汽車は永い言い訳を載せて

思えば、長い長い夢を見ていたような気がする。

説明するのも鬱屈になるような心持ちで三月に仕事を辞め、五ヶ月ほど社会のレールから外れてふらふらと彷徨い歩いていた。きちんと線路沿いを歩いている分、死体を探す四人の少年たちのほうがまだまともだ。
目的地まで素晴らしい速さで辿り着ける電車道のほうが、齢二十六の人間がゆくべき道として真っ当なのだろう。しかし(些かの負け惜しみを孕みつつも)この夏で目にしたいろいろな景色は、この遅々とした歩みだからこそ出逢えたものであったと僕は信じている。

去年の夏が自分を取り巻く環境の変化をもたらした夏だったとすれば、今年は自分の身の周りでさまざまな変化が起こった夏だと言える。友人の独立開業、幾年をかけて成就した恋、敬愛する先輩の結婚など。それぞれがそれぞれに、レールのポイントを切り替えたり、火室に石炭を焚べたり、或いは新たな目的地へと続く枕木を敷いたりしている。乗客席からはじっくり見つめることのなかったはずの景色を目の当たりにして、僕は少しだけ得をした気分になっている。
そうした転換期を迎えた人は一部であるが、そうでない友人たちも相変わらず忙しなくそのエネルギーを燃やして走り続けていて、時折そこにも無賃乗車させてもらっていた。やりたいことや行きたい場所に注ぐ熱量が大きい人々には、圧倒されつつも妙な頼もしさを感じる。きっとスピードの出し過ぎで脱線することなど考えもしていないのだろう。脱線してもなんとかなると思っていて、その“なんとかなる”には根拠不明の説得力がある。

僕はと言えば、久々にしっかり本を読むようになった。活字に向き合えば向き合うほど、読書という行為のハードさに気づく。作者の頭の中で構築された世界に文字という媒体を通して没入することは、こんなにも体力がいることだったのか。そして、こんなにも気持ちのいいものだったのか。昔のように日夜を問わず読み耽ることは困難になったが、それでもふと没入感から我に帰る瞬間に読書の悦びを覚え、なんとなくリハビリできている実感が得られて、それにもまた嬉しくなったりしている。
また、家族をもう少し大事にしたいとも思うようになった。ずっと元気だった祖父が心なしか弱っているのを、盆に帰省した時に感じたのだった。身体のほうはまだしっかりしているのだが、一方的に堂々巡りの話を続ける姿に濃くなりつつある“老い”の影を見てしまったようで、少なからずショックを受けた。思えば比較的若く見える父母も近く還暦を控えていて、親元を離れた僕はあとどのくらいの時間をこの人たちと過ごせるのだろう。祖父母が四人健在で、二、三年前に曽祖母が一〇六歳で大往生を遂げた長寿家系のためあまりそういったことに思いを巡らせたことがなかったので、とても印象深い盆であった。

高校野球は準々決勝を控え、夏は終盤に差し掛かろうとしている。僕は漫ろ歩きを終えて汽車に乗り込むところだ。秋の訪れを感じるにはまだ早い。長い長い夢から醒めるには、処暑の陽射しは充分すぎるほどに眩しい。