わかりあえなさについて語るときに我々の語ること

書きたい文章が書きたいように書けなくなって久しい。言葉と言葉がつながらない。最適な単語が見つからない。果ては文章の行先を見失う。相関関係があるのかどうかはわからないが、文章が組み立てられないと話し言葉もうまく出てこなくなるようで、最近ふいに吃ってしまうことが儘あってビックリしつつ困っている。
或いは、今まで自分が言語化してこなかったことを語ろうと(若しくは書き表そうと)している最中なのかもしれない。その様はさながら言葉の海を泳ぐ、というより溺れ踠いていると言ったほうが正確なような気がしないでもないのだけれど。

令和元年も終わりゆく今という時代を生きる身において、自らを通過してゆくあらゆる物事は変化に晒されている。文化も社会も情報も(いずれも個人として逃れる術のないものだ)目まぐるしく変わってゆくし、望むと望まざるとに関わらずそれらを日々浴び続けている僕たちも、自身の生活や環境や思想の形を(概ね“生きやすい”ように)変化させ続けている。「最適化している」と言ってもいいかもしれない。
言うなれば、例えば半年前の自分と現在の自分を比べてみてたときに、生活や環境や思想が全く異なっているとしても何らおかしくはないということである。そして、常に「現在」からの視点しか持ち得ない僕たちは、過去の自分を振り返って「よくあんな環境で生活していたな」「どうしてあの時あんなことを考えていたのだろう」と訝しんだりする。自分自身のことですらそうなのだから、それが他人同士なら、と考えると軽く絶望してしまう。方眼用紙ならたった四マスのスペースに収まってしまう「相互理解」というものは、その簡潔さとは裏腹にひどく難儀なものに思えて仕方がない。

長年にわたり我が恋と冒険を見届けてくれている友人によると、僕はどうにも「属性の遠そうな人」を好きになりがちなのだと言う。個人的にはむしろ友達のような関係性の人が理想的だと思っていて、あまりそんな意識はなかったのだけれど、思い返してみれば確かに(成就したか否かに関わらず)これまで好きになった相手は、むしろそこまでしっかり共通の趣味や話題がある人たちではなかったかもしれない。そして、本質的にわりと重度の恋愛体質であるはずの我が身を振り返ると、人に恋愛感情としての好意を抱くきっかけは、相手に対しての「わからなさ」と、それに対する「わかりたい」という強い欲求なのではないか、というところに思い当たったのであった。
友達になれば自ずと相手のことをだんだん知っていくことができる。勿論、相手との親密度合いや所属するクラスタによって、同じ“友達”というカテゴリでも相手に開示できる情報の密度や種類は変わってくる。趣味の友達とは趣味の話を、学生時代の友人とは当時の思い出話を、といった具合に。だけど、同じ時間を過ごしていても人となりやパーソナルな情報がなかなかわからない人が、時々いる。そこまで仲良くないのなら当然のことだが、幾度となく顔を合わせていてSNSも繋がっているのに、年上か年下かも知らない人がいる。ふらっと一緒にライブに行き、帰りには軽くお酒を飲み交わしたりできるのに、名字さえもわからない人がいる。SNSの普及は匿名性とプライバシーの境目を溶かしたけれど、実生活においても相手のパーソナリティを知らないままに人付き合いを深めることへの抵抗や違和感をも融解させていったのかもしれない。

脱線した話をレールに戻す。仲の良さと相手に対する知識量が必ずしも比例しない現代に僕たちは生きている。よく知らないままに仲良くなった相手については、邂逅の中で自然な速度で相手を徐々に知っていくしかない。その速度を加速させるのが相手への興味である。わからなくても仲良くいられる相手についてわかりたい。好きな動物はなんだろう。どちらの脚から靴を履くんだろう。家の本棚にはどんな本が並んでいるんだろう。
ミステリアスな人が好きだという人がいる。僕のこうした堂々巡りもある意味ではそうなのかもしれないけれど、秘密が多い人が好きと言うわけではない。僕が知りたいのは意図して隠されていることではなくほんの些細なことでしかなくて、わかりたいのはきっと理由なんてないどうでもいいことなのだ。いつか自然な速度で知れるのかもしれないことを、ただただ知りたくわかりたくなってしまう。
どんなに仲が良い人でも、その人の全てを知ることはできないし、その人のすべてをわかることはもっと難しい。だけどそのわからなさこそが、人と人を結びつける媒介になる。だからこそどんなに言葉を尽しても伝わらないことを、どれだけ疲弊しても必死になって言葉を尽して伝えあう。辛さに時々目を瞑りながらも直視する。面倒くささを乗り越えて辿り着ける場所に想いを馳せる。

こうした無間地獄に身を置いていたら、小袋成彬が年末に『piercing』をリリースした。アルバム中盤に差し掛かる手前の「Turn Back」→「Bye」の流れに打ち震えている。Turn BackとシームレスにつながるByeは男女混声コーラスで、こう歌い出される。

わかりあえばわかりあうほど
わからないことばかり
僕はいつも僕らしさを
君に預けてばかり

親友とも恋人とも、僕たちは永遠にわかりあえない。だけど、わかりあえないことをわかりあえている僕たちは、相手を思いやることができる。それは例えば、楽しい時間を過ごしたあと各々の家路に着く時に、互いに手を振り小さくなる背中を見届けることだったりする。夜に溶けてゆくその姿を見送りながら僕は、わかりあえないことは遠ざかることじゃないよな、と小さく信じなおす。

でもいいや
さよならが言えるだけ
幸せよ
幸せよ

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