あの日、二人は夏のイデアでした

その日偶然二人の姿をみとめたA女史は、彼らの様子をそう回想した。通りに面した喫茶店に入った時には気持ちよく晴れていた京都の空にはしばらくすると重く雲が立ち込め、真夏の通り雨が広いガラス窓を激しく叩いていたが、それもいつの間にかぱったり止み、今は雲間から薄く日差しが漏れている。窓の庇から水滴が、眠りにおちる時の心拍数のようなリズムで滴り落ちる。ほとんど手をつけられないまま所在なげにテーブルの上で横たわっている、すっかり冷めてしまったA女史の“ホット”サンド(だったもの)を見つめながら、僕はその月曜日を反芻していた。

確かにあの日、二人は夏のイデアだったのだ。
空に塗りたくられた目も眩むような青も、やけにくっきりとしたテクスチャーをもって立ち昇る入道雲も、湿った風に運ばれてきた草いきれも、なびくプリーツスカートの陰影も、気が抜けてぬるくなった500mlの缶ビールも、すべてがその日の二人の為にあった。正確には、そう錯覚させるだけの“なにか”があった。恐らくその“なにか”を感じ取ったのは、彼も彼女も同じだったのではないかと思う。ただ実体を持たないそれは、彼にとっては目映いばかりの未来を照らすような光であったのに対し、彼女にとっては不規則に明滅するネオンライトのようなどこか頼りない光だったのかもしれない。少なくとも彼は丸半日に渡る長く短い祭の中に、一瞬の永遠を見出してしまったのである。よく知られた作品タイトルの言葉を拝借すれば、彼女こそが「100パーセントの女の子」だと確信させられたのだ。尤も、二人が出会ったのは七月のある土砂降りの夜だったのだけれど。
出逢ってたかだか二、三週間の相手にそこまで熱を上げるだなんて惚れっぽいにも程がある、と冷や水を浴びせることは簡単だが、恋の渦中で火達磨になっている相手には焼け石もとい焼死体に水だ。ましてやその日二人と初対面であったA女史をして、そこに流れていた空気を「あまやか」と表現するのならば、それもまたむべなるかな、当然の帰結であるように思える。

そして(人の数だけある真実とは異なり、実際に起こった現象としての)事実、彼女も彼に好意を寄せてしまったのである。彼女は「“だから”もう会えない」と彼に告げたという。およそ理解に苦しむ展開に彼もまた、その瞬間思考のヒューズが飛んだらしく、その後のことはよく覚えていない。
言葉と気持ちは裏腹で、本当のところはどうだったのかわからないよという友人もいたが、そんなことを言い出せばキリがないし、第一言葉以上に人の気持ちのよすがとなり得るものがあるだろうか。否、友人の言うとおり、その場限りの浮ついた科白として捉えられていたならまだ良かったのかもしれない。しかし(彼から見た・彼が一方的に感じ取った・彼が愛した)彼女の真摯さや真面目さがそれを許さなかった。やがて言葉は(彼女が意図せぬ形で)呪いとなり、彼を蝕んでいった。その後の彼がどこでどうしているのか、僕は知らない。

A女史との邂逅から約ひと月が経ち、窓を開けて眠ればうっかり寝冷えしかねないほどに涼しくなった。また夏が死んだのだ。
先日、ベランダで事切れた蝉を近所の公園に埋めに行った。蒸し暑い真夜中、寄ってくる蚊を気にしながらビールなり缶コーヒーなりを片手に二人が過ごした場所で、一番幹が太そうな樹の根元に穴を掘りながら、これは夏の埋葬だと思った。
結果だけ見ればいつものよくある失恋なのだ。それでも、前を向くとか立ち直るとかそういうことができそうになかった僕は、“彼”に死んでもらうことにした。遺影はあの夏の日に撮られた一枚の写真ということにしよう。夏の陽射しに細い目をさらに細めて缶ビールを飲む彼の表情は、泣いているようにも笑っているようにも見える。

一度イデアになってしまった人間を忘れることはできない。また次の夏が来ればきっと、僕は彼のことを思い出すだろう。だから、昔死んでしまった友人を偲ぶようにふと思いを馳せ続けることぐらいは、赦してもらえるといくらか救われるのだけれど。

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