セクシーってなんですか?

ゴールデンウィークの最終日は、愛すべき先輩に会いに名古屋へ遊びに行き、あまりに美味しい手料理を振舞ってもらった後にだらだらと『人のセックスを笑うな』を観るという、およそ考えつく限り最高の日曜日の過ごし方を体現したのであった。


観たことがある人ならご理解いただけるだろうが、『人のセックスを笑うな』は前半60分のうちにピークのシーンがあって、残りの77分は上りも下りもしない、映像と同じ平坦な畦道が続いているような映画だ。
「平坦な畦道」をもっと平たく言えば「退屈」であり、好意的に言い換えれば「演出の妙」であるが、そもそも僕は映画よりも山崎ナオコーラ著の原作を読むことをおすすめしたい。

とはいえ僕はこの映画がだいすきだ。
所謂「濡れ場」に頼ることなく、セックスの幸福を「キス」と「事後」の描写で表現しきるこの作品には心憎さを感じずにはいられない。
エアマットに息を吹き込む永作博美に松ケンが言い放った「子どもか!」のツッコミ(まさにそのシーンこそ「ピーク」という其れである)は墓石に刻みたいほどの金言である。愛だ。愛でしかない。

だがなんと言っても特筆すべきは、劇中の永作博美のセクシーさだ。
あんなにあどけない顔立ちだというのに、醸し出す雰囲気やその表情はもちろん、タバコの吸い方からタイツの雑な脱ぎ方まで「セクシー」と言うほかない。


昔、とあるアイドルは我々に
「セクシー」なのと「キュート」なのと、どちらが好きなのか、と迫ったものである。

「セクシー」と「キュート」とがそれぞれ相対するものと位置づけられるのかは定かでないが、褒め言葉として存在するこの二者がそれぞれに異なる(多くは女性の)魅力を表していることは明らかである。

言葉どおりに意味を解釈すれば、前者は「色気」で後者は「愛嬌」だ。
そういう意味では両者は決して相反するものではないし、いずれも非常に好ましい魅力であり、どちらかひとつを選ぶにはとても悩ましい。

色気と愛嬌、そもそも天秤にかけられるのか。


こと女性の魅力という観点に限って言えば、「セクシー」と「キュート」の最大の違いは、セクシーが「セックス」からの派生語であることからも明らかなように、性的に由来する魅力であるということだろう。

セックスの生物的な極限の意義を考えれば「子孫を残す」ことであり、生物的に異性を魅了する特徴(=セクシーさ)が成長とともに発現してくる。そして「子孫を残す」のに適した期間が終わればその性質は次第に失われていく。

乱暴に言ってしまえば、赤ちゃんからおばあちゃんまで備わり得る「キュートさ」とは異なり、「セクシーさ」は生物として子孫を残すのに適したある期間に特化して備わるものなのだろう。
(無論、この荒削りも甚だしい主張、当てはまらない反例はガンジス川の砂より多く、反論の余地はカスピ海より広大である)


アルバート=アインシュタインに並ぶ20世紀最大の物理学者スティーブン=ホーキング博士は、宇宙最大のミステリーはなにかというインタビューに「女性だ」と答えた。

山崎ナオコーラという名前も、人のセックスを笑うなというタイトルも、そしてそのストーリーも、あまりにセクシーであまりにキュートだ。男には決してたどり着けない世界のもののようにさえ思えて仕方がない。マジでどうやったらこんなん生み出せるんや。
大ホーキングにさえわからないのだから、考えても仕方がない。トホホ。


余談になりますが、女の子が身につけるものの名前ってなんであんなセクシーなんですか?

ブラジャーってなんですか?

ネグリジェってなんですか??