夏の子供たちはゆりかごを揺らす

五月からクールビズが始まった。
まだ早えよ、などと思いながらスーツにネクタイで仕事をしていたが、ここ最近背中や首回りがジットリ汗ばむようになった。

気づけばもう六月だ。

カレンダーの数字がひとつ増え、最近の湿気を孕んだぬるい空気が順当に梅雨の気配を知らせていることや、いつの間にかパンツ一丁にモールルのライブTだけで寝ていることに気づく。

暦が正確だと、なんとなく安心する。
予測不能なことばかり起こる世の中で、冬至から夏至にかけて少しずつ陽が長くなっていくことや、梅雨入り前にちゃんと紫陽花が咲き始めることは、僕たちを乗せた大きなゆりかごが規則正しく揺れていることを示している。
梅雨入り坊やが梅雨の到来を告げ、雨の日が続き、気持ちが沈んでも大丈夫。ゆりかごが揺れている限り、いつか梅雨は開けるのだ。


春夏秋冬どれが好き?という質問に、小学生の頃はうまく答えられなかったような気がする。夏の暑い日には冬を、冬の凍える日には夏を恋しく思った。
いつからか、暑さ寒さの不快のうちの前者を乗り越えたのか、夏大好き人間になっていた。
単純に、冬休みより夏休みのほうが長いから、という理由だったかもしれない。

とはいえ、夏は尊い季節だ。たとえ夏休みより冬休みのほうが長かったとしても、それは変わらないだろう。
そもそも住まいが日本一夏が熱くなる「聖地」なので、さしずめ僕は「夏の魔物」と言っても過言ではない。
みんな高校野球見に来てくれ。そのあと魔物ん家で冷たいおそうめん食おうぜ。

四年間通学し続けた京都もまた、我が町に負けず劣らずの夏が似合う街だ。
京都は春夏秋冬最強都市だが、こと夏に関してはより一層魅力が迸る。
祇園祭川床宇治川花火大会、五山送り火など、これでもかっつうぐらい風情の暴力が襲ってくる。
盆地特有の悪魔的な暑さでさえ、京都を生活圏の中心から外した身としては、愛おしいことこの上ない。


終わりが寂しく感じる季節というのも、よく考えれば夏だけのような気がしている。使い古された表現だが、「同じ夏は二度来ない」というのはひとつの真理である。
知らない間にいくつもの夏を終え、季節の移ろいに鈍い大人になっていた。
夏だろうがなんだろうが、5/7は社会人としての変わらない生活が続いている。

だからこそ、まるで夏休みが来るかのようにめちゃくちゃなスケジュールで遊びに誘ってくれる友達がいることは、本当に恵まれていると思う。

なんでこのクソ暑い中白浜温泉に行きたいんだ。
祇園祭の週は祭に集中しようぜ!」ってなんやねんマジで。


もちろん、どう頑張ってもこどもの頃の若さと情けなさだけで走り抜けられた夏に帰れるわけではないが、今もちゃんとゆりかごは、規則正しく揺れている。


梅雨が明ければ、また新しい夏が来る。