クジラと宇宙を泳ぐいくつかの冴えたやり方

クジラを飼えたらたぶんたのしい

一緒にふるえてよ

「ラブコメディ」なるジャンルが嫌いだ。なんなら憎い。

直訳すれば「恋愛喜劇」とでもなるのだろうか。自身のそれほど多くもない(決して少なくもない)恋愛譚を振り返ってみれば、思い浮かぶのはほとんど悲劇ばかりだ。ゆえに、ストーリーに共感したり登場人物に感情移入できない。
恋愛ってそんな爽やかなもんなのか?
グラスに輪切りのレモンが刺さったメロンソーダのように、柑橘系の香りと共に口の中でシュワシュワ泡立ち弾けるようなもんなのか??
じゃあ僕が今まで涙目になりながら飲み下してきたアレはいったい何だと言うのか???
青汁か????
ゔんん、不味い!もう一杯!!

とにかく青汁のエグ味に慣れきった僕の前にメロンソーダなんかを出されても、胃も脳みそも受けつけないのだ。だいたい喜劇って時点でハッピーエンドが約束されているではないか。他人の幸せ話と校長先生の挨拶ほど退屈なものはないと昔から相場が決まっている。だから、もし僕が映画のポスターに小さく書かれた「暴走ラブコメディ」の文字を見つけていたら、日本中の女子の共感を欲しいままにする某歌姫へのアンチテーゼとも取れるタイトルのこの映画を観ることは、無かったかもしれない。

いつか読まなくてはと漠然と思っていた綿矢りさの原作小説を手に取る前に、友人に誘われて観に行った。ネットでも良い評判をちらほら目にしていたし、特に断る理由もなく2時間半をスクリーンの前で過ごした(彼女と観る映画はなぜだか決まって長尺なものばかりだ)。


24歳のOLヨシカは、中学の同級生であるイチを10年間片想いし続け、疎遠になってからも(そもそも仲良くもなっていない)数少ないイチとの思い出を蘇らせては独り悶える日々を過ごしていた。そんなある日、会社の同僚であるニから猛烈なアピールを受け、遂には告白される。全くタイプではないニの猪突猛進な愛情表現に辟易しつつも、人生初のアバンチュールの気配に浮かれるヨシカ。しかし、ひょんなことから妄想片想いの相手であるイチと再会する好機を掴み・・・というあらすじ。

映画はヨシカ(松岡茉優)の独白から始まる。ハンバーガーショップのウエイトレスに、ただひたすらに話しかける。顔を付き合わせて、目と目を合わせて。

「本能のままにイチと結婚しても絶対幸せになれない。結婚式当日もイチが心変わりしないようにって、野蛮に監視役続けてなくちゃならない、そんなんで幸せなんて味わえるかよ。その点ニならまるでひと事みたいにお式堪能できちゃう。ドレスのままチャペルから何だか知らんが丘駆け下りてわがままにニのこと放ったらかして、波と戯れたりデコルテあらわなドレスで肩上下させてハーハーしたりして花嫁タイムをエンジョイできちゃう」

冒頭の語りからフルスロットルで迫ってくるヨシカのイタさ、捻くれっぷり。最寄駅の駅員さん、コンビニエンスストアの店員さん、堤防で釣りをするおじさんにも、のべつ幕無しにベラベラ話しかける。
滔々と吐露されるセリフはラブコメディのヒロインが持つべき純真さ、素直さ(偏見)からはおよそかけ離れた、ぐずぐずに膿みきった謂わゆる「こじらせ女子」の心情であり、ラブコメディを毛嫌いする僕の歪んだ視線と重なり合う(その視線は好きな人を直視できずに視界の端でこっそり伺うような、まさにヨシカの言う「視野見」である)。

だけど、本当はヨシカも幸せになりたいだけなのだ。好きな人の瞳に映りただ認知してもらうという、それだけのことで、自己肯定感の低い人間は幸せになれる。だからヨシカは涙を瞳に溜めて言う。
「それでもやっぱり、イチが好き」


だけどそれは奥ゆかしさでもなんでもなく、ただの「臆病と不遜」なのだ。
やがてイチとの再会を果たしたヨシカはふたりで朝焼けを見ながら絶滅していった生き物たちの話をし、そして自分がかつて息を潜めてイチを視界の端に捉えていたことを告げる。しかし、視界の端で見ているだけでは本質は映らない。
みんなから人気の王子様のように見えていたイチは、実はいじめられていて苦痛を感じていた。そして同様にイチもまた、まったくヨシカを認知していなかったのだった。

10年来片想いしてきた相手に名前すら覚えられていないという現実。と同時に、ここまでヨシカが親しげに話しかけてきた街の人々も、じつはヨシカが妄想の中で会話していただけなのだということが明かされる。
このヨシカの脳内→現実世界の暗転具合がものすごい。あんなにコミカルだったのにヨシカに一瞥もくれない釣りおじさんとか。そんなんありかよ。


「ラブコメディ」と銘打たれているだけあって(?)、ラストはなんとなくハッピーエンドで終わる。いや確かにあれは、ハッピーエンドなんだろうけど、どうにも僕は悲しくなってしまった。
ひとの気持ちを理解することは難しい。難しいなりに(全体の何割かを)理解することはできる。そしてその先に「わかる、自分もそうだよ」と共感できたり「わかるけど、それはないな」と共感できなかったりするフェーズがあるのだ、と思っている。
しかし、この後半にかけてのヨシカの言動はなかなか理解に苦しむものばかりだ。なのに自分がヨシカならそうしてしまうような気がしてならない(これを「ねじれの感情移入」と呼びたい)。
もはやこのねじれの感情移入に関しては、ストーリー云々以上に松岡茉優の迫真の演技によるものだと言って差し支えないだろう。

自己中心的で、一方的で、ひねくれていて。言語化すれば明らかなように、ヨシカにはおよそいいところがない。
それなのにどこか可哀想な気持ちになってしまうのは、誰もが持ちうる自分の心の熟れすぎてグズグズになった膿のような部分を重ね合わせてしまうからだろう。
治癒力には個人差があって、そういう心の腐りの治りが遅い僕のような人種にとってはひどく心をふるわされてしまったのだ。

それはお前に同情してのことだよと言っても、うるせぇ、勝手にふるえてろ、と言われてしまうんだろうけど。