私が読みはじめた彼女は

ここ最近、デイリーポータルZのライターである古賀及子さんのブログを読んでは嫉妬している。

mabatakiwosurukarada.hatenablog.com

子どもたちに見たことがない商品を探させるが持ってくるのを見るとことごとく私は知っており大人と子どもの見聞の広さの違いを実感した。

子どもたちは、自分が知らない商品をしかし私は知っていることを特に気に病む様子がないのでよかった。

私は小学3年生のとき、もう小学3年生なのに自分が何も知らないのを恥ずかしいと思ったのを覚えている。

知らないことはいつでもこれから知ればいいだけなので恐れることはない。

ここ数日でいちばん好きな記事のいちばん好きな箇所。母親のまなざしは、25歳男性には持ち得ぬ視点だ。逆もまた真なり、とも思うのだが、「25歳男性特有の視点」って何なんだ。僕が持ちうる固有の視点など「身長186cmからの視点」ぐらいしかない。

 

常々、女性の書く文章はピントの合わせ方が上手いという風に考えているのだけれど、彼女のブログのせいで一層その認識を強くしてしまう。文章における「面白さ」って例えば、笑いのネタの勢いだとか、台詞回しのユニークさとか、創作ものであれば物語を展開させる想像力とかいろいろあって、それぞれに特化した書き手は男女問わずいるんだけど、「日常を切り取る着眼点」みたいなものに優れた人はやはり女性のほうが多いような気がする。もちろん、あくまで個人の実感だ。前述の古賀さんもそうだし、『冷凍都市でも死なない』の「渋いギャル」こと郷田いろはさんや、『はい哲学科研究室です』の永井玲衣さんもすごい。


nagairei.hateblo.jp

時折読み返してはうわ言のように「ぁ…うあぁ……」と呻いている。なんなんだ、この文章たちは。
たぶん、そこに男女の性別を持ち込むこと自体ナンセンスなのだろう。だが、なんとなく昔から、小説に関しても女性のほうが好きな作家さんが多かった。恩田陸にはじまり小川洋子川上弘美山田詠美山崎ナオコーラ三浦しをん川上未映子津村記久子綿矢りさ……。もちろん好きな男性作家も数多くいるのだが、か細い指先でつつつ、と琴線をなぞっていたかと思えば勢い、虹村億泰のザ・ハンドよろしく「ガオン」という効果音とともに心の臓を削り取られるようなあの感覚は、彼女たちの文章でしか得られないものである。それらは、奇を衒った洒脱な文体以上に、不思議な色気に満ちている。

好きな女性作家にその名を挙げた山崎ナオコーラさんは確か、自身のエッセイ小説『指先からソーダ』で「書店の棚で本の並び方が、出版社別になっていることや作家の五十音順に並んでいるのはわかるが、男性作家と女性作家で区別されるのだけは意味がわからないしやめてほしい」という旨のことを書いていた(はず)。そりゃそうだ、と思う(そもそもそんな並びをあまり見たことがない)一方で、男性と女性が書く文章は明らかに纏っている空気が違うとも思っている。だが、山崎ナオコーラさんは自分の作品にも「女性が書いたもの」という目線を持ち込まれたくはない、と言っている(書いている)。書き手からするとそういうものなのかもしれないが、一ファンとしてそれは難しいことだなと頭を抱えている。登場人物の言動、心象描写、風景の切り取り方にも書き手の性差は否応なしに出てしまうものなのではないだろうか。もちろん、読んでいる最中にそれを意識することは基本的にないのだが、やっぱり、男性にしか書けない文章、女性にしか書けない文章はそれぞれ在ると思う。

 

しかし、よくよく考えてみれば、女性たちは「文章を書く」ことについて男性よりも慣れ親しんできているんじゃないだろうか。彼女たちが授業中にめちゃくちゃ緻密に折りたたまれた手紙を回していたり、尋常じゃない速度で携帯のメールを打ち込んだりするさまを、僕ら男子は目の当たりにしてきているではないか。キモがられないように嫌われないようにと推敲に推敲を重ねた気持ち悪いメールを送った直後に絶妙な長文メールが返ってくると、もしかして迷惑メールに誤送信して自動返信が返って来たのか?と慌てたりしていた。

男子と女子のメールの場合、男子があーでもないこーでもないと返信にもたついている間に彼女たちはどういう文面が来るか予想して——ある程度汎用性の高いテンプレート的な——メールを用意していたのかもしれない。しかし、女子同士のメールだとどうだろう。想像の範囲でしかないが、それはもうセレーナとビーナスのウィリアムズ姉妹対決ばりの高速ラリーが繰り広げられていたのではなかろうか。

ここで培われる能力はきっと、文章力など以上に観察力なのだろう。よくもまぁそんなにも書くことがあるな、と感心するが、見過ごしてしまいそうな日常の些末な物事を掬いあげて言葉にする行為は、まさに永井さんの言うとおり「世界を適切に保存すること」だ。そもそも、その行為を表す「世界を適切に保存する」というどこかたどたどしくも生真面目な表現そのものが素敵だ。

 

本当は僕の日常にだって、魂が小さく震えるような瞬間がたくさんあるのだ。その尊さというか愛おしさというか、もっと言えばそれを「失いたくない」という気持ちが薄れていたような気がする。自分が見聞きしたもの、経験・思考したことをもっと大事にしていかないとな。「自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ」と叱責してくれるのもやはり、一人の偉大な(女性)作家である。そして、「感受性を守る」というその作業は、自身の中にある文章の性差における劣等感を脱ぎ捨てるところから始まるのかもしれない。