鈍色のうみ

ちょうど一年くらい前に明石に降り立ったのもこんな雨の日だった。
暦は三月、典型的な三寒四温の真っ只中であり、昨日までの少し汗ばむくらいの陽気が嘘のような肌寒さである。仕事で何度か明石に来たことはあったが、こんな雨降りの日に来たのは入社直前ギリギリまで放ったらかしにしていた自動車運転免許取得試験を受けるために、眠い目を擦りながらしぶしぶ足を運んだ大学四回生の三月以来だ。ひと月ほど前には教習所を卒業していたにもかかわらず何故そんなに引き延ばしていたのか、免許を取ってしまえば社会人になる資格が揃う(弊社では募集要項に「普通自動車運転免許を取得していることが望ましい」と書かれていた)ことになる、そうなると楽しかった学生生活からの卒業を否応なく実感しちまうからヨ…などという理屈は少しもカッコがついていないし、実際のところただただ面倒臭かったというのが八割方であり、いよいよ全くもってカッコよくない。

唐突に、ごくごく自然に書き出したが、最初の更新からちょうどほぼ一ヶ月ぶりの更新である。物事を始めるにあたって自分はかなりの臆病者なので、見切り発車はしたくても踏ん切りがつかない。
今回もはてブロをやろう、コラムをやろうと座ったまま思い、思い立つまでに丸三日を要し、実際に開始するまでにいくつかトピックを下書きに準備しておいた。無論、ネタ切れしたり更新するのが億劫になった時のための保険である。
初回の記事を更新後、一週間ほど俄かに仕事が忙しくなった。もうこの時点でなかなか面倒くささが首をもたげていたのだがそれ以前に、仕事がひと段落した後いざ書こうと思いきや文章の書き方がわからなくなっていた。もっと言えば、言葉を組み立てたり意味をつなげたりする頭の使い方がわからなくなっていたのである。こうなるともう脳がはてブロの編集画面を開くのを拒絶し、しばらく通勤中はずっと花札アプリをやっていた。混雑していく車内で、ひたすらこいこいをし続けた。

とはいえやはり心地の悪さは残るもので、どうにもはてブロが気になる。週二で更新と大見得を切ったことも相まって、体裁が気になるのは哀しき人の性である。しかし考えはまとまらず、記事を書こうにも書けないので、tumblerで愛読していたアカウントの更新を読み読みリハビリをはじめているのが現在である。彼の文章は明解で淀みなく、それでいて言い回しに諄くない程度の色があって、こんな文才があればなぁといつも思う。
面倒くささに飼い慣らされちゃいかんなぁと、またも明石の地で感じた。

今、明石から引き返す電車に乗っている。さっきトンネルを抜けた先に広がる須磨海岸を観た。依然として鉛色の空が広がっていて、海もそれに応じた穏やかな鈍色だった。

ぼくがはてなブログをはじめた理由はだいたい1個ぐらいあって

ひとつめはブログというか、コラムを書きたいなと思ったこと

去年の春から、大きくも小さくもないけど分不相応に大きいビルの中にある広告代理店で働いていて、始業時間までの15分くらいで「勉強」という名目を羽織りながら、TCC(東京コピーライターズクラブ)のリレーコラムを何とはなしに読んでいました。

TCCはその名の通り、東京を中心に活躍しているコピーライターの集まりで、リレーコラムはそのTCCのサイト上で公開されているコンテンツです。TCC会員のひとりが(原則)月〜金の5日間コラムを書いて、また次の週べつの人にバトンタッチしてコラムを書いていく…という形で更新されています。
内容は様々ですが、傾向で言えば
「若い頃はこんなことでこういう失敗して怒られたけど、それってこういうことだったんだなぁって。そんな経験のおかげで今の(デカいプロジェクト動かしてるor独立して成功してる)自分があるんだよなぁ〜〜もちろん今でも毎日大変だけど周りもすげぇリスペクトできる人ばっかでホント刺激受けまくり、広告業界サイコー!」
的な内容が各々の仕事哲学を交えながら語られているのが大半と思っていただければ。

そんな華やかでめまぐるしいトーキョー広告マンストーリーを流し読みしながら想像してみるのですが、大抵20時〜21時台には退社できる地方都市の新卒サラリーマンの生活とはかけ離れすぎていて、彼らの世界とはとても地続きとは思えないというのが正直なところです。
もちろん、東京には大企業もマスメディアもインフラも集中していて、仕事ひとつひとつの予算も桁が2つくらい違うというのは至極当然の話です。でも、その大前提としてある「大企業もマスメディアもインフラもなんでもある」という環境が完全に「別世界」なわけで、もはや扱っている商品が、持っている武器が違うんだなぁと途方に暮れてしまいます。

その中でコピーライターという職業だけは、言葉を武器にしているのです。
「コピーライター」という職業を知ったときから、教育を受けていれば誰でも等しく持っている「言葉」をどうして売り物にできるのだろう、と思っていました。
小説家や詩人、脚本家といった人々も言葉を武器にしますが、彼らの活動の根底にあるのは「表現」であり、基本的には自分の芸術などを創りあげることを目的としている、と思います。
広告活動は原則として「もの・サービスを売る」ことがベースに在ります。そのためにCMやポスターを作り、それをどの媒体に載せて発信するかを選定するには専門的な技術や知識が必要ですが、そこに挿入される言葉(キャッチコピーにせよボディコピーにせよ)は、本質的には「もの・サービスを売る」ための言葉であり、実際にお客さんと対面してセールスするときの言葉と同様のものであるはずではないでしょうか。
だとすれば、なぜ「広告」における言葉には専門職としてのコピーライターがあり、商品を実際にセールスするための言葉には専門職がないのだろう、広告表現における言葉とはなにがそんなに特別なのだろう、ということをぐるぐると考えるようになりました。

ひとつ思い至ったのは、広告は「自分」という枠の外にあるもののための言葉である、ということです。
小説も詩も脚本も、その構想や世界観、思いの丈はすべて(多かれ少なかれ外界からの影響を受けていても)自分の中から出てくるもので、言葉はそれを表現するために用いられるものです。対して広告は、自分の感情や心の外にある「他者」としてのものやサービスのために言葉を用いるものです。
つまり、「他者のための言葉」を理解することが広告におけるコピーを理解することに繋がるのではないか、と考えました。

経緯が随分と長くなりましたが、今回僕はコラムを書きたいと思って、はてなブログのアプリをダウンロードし、ユーザー登録を行い、このブログを立ち上げました。実際の定義は知りませんが、感覚的にブログは自分の経験したこと、その上で思ったことを書き連ねる、材料も調理も自分の中にあるものでおこなう表現だと思っています。僕がしたいのは、自分から湧き出るものだけじゃなく、自己の外にあるものをも材料にして自分で調理をおこなうコラムです。コラムを書くことは広告を書くことに近いのかなぁ、全然近くないのかなぁ、とか思いながら週に2、3日くらいのペースで、これから書いていきたいと思っています。

いきなりえらい長くなっちゃったな。
とか思ったけど、実際公開してみたら全然たいしたことなかった。終わりです。