紫陽花こわい

春先から発症した右足親指の巻き爪の悪化に、未だ悩まされ続けている。

 
 
単なる巻き爪が少し痛むくらいと放っておいていたのが完全に裏目に出た。
気づけば親指全体がイヤに「ぼてっ」と腫れ、紫とも青色ともつかないイヤな色に変色し、「ずきずき」とも「じくじく」とも異なる、これまたイヤな痛み方をするようになった。
 
皮膚科でもらった軟膏の効き目も、気休めの域を出ないというのが正直な感想である。
禍々しい辛子色の塗り薬は、拍子抜けするほど傷口に沁みない。
 
日常生活における移動手段が両の脚である我々人類にとって、右足の親指という部位へのダメージはなかなかの痛手だ。
大事をとって部屋で「じっ」としていられれば良いのだが、街をてくてく歩く仕事をしている身としてはそれも叶わない。
 
朝方の鈍痛は夕べには激痛になって右足全体に牙を剥く。
僕はといえば、なす術なく巻き爪の襲撃をモロに受け、ビッコ引き引き、糸の絡まった操り人形よろしく「かくんかくん」と不恰好な調子で帰路に着くのであった。
 
 
そんな災難が三ヶ月続き、痛む右足はもちろんのこと、なんの効き目も感じられない辛子色の軟膏や、日々患部を圧迫する革靴、延いては足に何らかの痛みを抱える者に噛みつき、邪智暴虐の限りを尽くすこの革靴を履くことを強要する腐りきった社会に対し、とうとう僕は激怒した。
こんな黒光りした靴では、メロスも走るに走れまい。
裸足で働かせろ、裸足で。せめてビルケンのサンダルだろうが。
 
短剣を持って王城に侵入するほどではないにせよ、とにかくこの痛みに対する怒りは日毎に募るばかりであった。
正確に言えば、ほとほと嫌気がさしていたのだ。
 
 
そこで僕はひとつの決断を下した。
いっそ親指切っちまおう。
 
 
そう決めてからは早かった。
 
まずは映画『アウトレイジ』を観返して、指を切り落とすに足りる道具を知るところからである。
作中で切り落とした指を集めれば片手分ぐらいにはなるような記憶だったのだが、そうでもなかった。
しかもこの人たち、あらゆる凶器を「道具」と呼んでしまうので、指切り落とし器の正式名称がわからない。
名前がわかるものはないかと注視するが、登場人物の「木村」が指を切る道具しかわからなかった。
 
木村は、一作目はカッターナイフで、二作目では自らの歯で指を食いちぎっていた。DIYかよ。
 
とりあえずカッターナイフも自前の歯も、見るからに相当な痛みが伴うであろううえに全然指が切れてなかった。
そもそも身体がかなり硬い僕にとっては、足の親指を口に持っていくことさえどだい無理な話だ。
 
ともかく理想は
 
「サクッ」
 
「ストン」
 
「やれやれ」
 
である。
 
料理が得意な母に迷惑をかけないよう、あまり使っていなさそうな果物ナイフを選ぶ。
 覚悟は決めたものの、ナイフを持つ手は震えている。
 
 
今となっては何故そうしたのかわからない。
イメージトレーニングのつもりだったのかもしれないし、或いはひと呼吸置くつもりだったのかもしれないが、答えは風の中である。
 
とにかく僕は、右手に握っていた果物ナイフを左手に持ち替え、空いた右手で手刀をつくり、右足親指の付け根に「トン」と触れた。
 
瞬間、「ふっ」と右足の力が抜けるように感じた。
 
同時に「ぽと」と音がするので何かと思えば、醜く熟れた柘榴のような、僕の右足の親指がフローリングに転がっていた。
 
右足を見れば、当然というべきか、人差し指の左隣は空席になっていた。
ほんの数秒前まで親指があった空間に手をやるが、もちろん虚を掴むばかりである。
すなわち、床に横たわっている親指は、十中八九さっきまでその空席に座っていた僕の親指ということで間違いないのだろう。
 
ここまで遅々とした分析をおこなって、自分の右足に一切の痛みが訪れないことにようやく気づいた。
椿の花が「ぽたり」と落ちるように、右足の親指はあまりに自然に落ちたのだが、フローリングを染めるはずの血は一滴も流れていなかった。
 
試しに左手に持ったナイフの刃を、右手の親指に押し当てる。
「ぷつ」と葡萄の皮が裂けるのに似た感覚がナイフを持つ左手に伝わる。
裂け目から「じわり」と湧き出た赤い血が親指を伝う。
薄い紙で指を切ったときのような、「ひりひり」するような微痛に舌打ちをする。
 
 
 とすれば問題は「右手」にあるのかもしれない。
所以はわからないが、僕の右手に人智を超えた力が宿り、手刀で触れた凡てのものを、さながら斬鉄剣が如く両断せしめた可能性が俄かに浮上してきた。
 
さすがに左足の親指で試す勇気は無かったので、ひとまず昨日の新聞で試す。
なるべく先般と同じ条件で、右手で手刀を作り、軽く新聞紙に触れる。
「くしゃ」と情けない音を立てて、並んだ活字と総理大臣の顔が歪む。
しかし、新聞紙には皺ができるばかりで、切れるどころか破れてさえいなかった。
その後、ソファの脚やテレビのリモコン、最終的には左足の親指でも試してみたのだが、あの幻の切れ味は再現できなかった。
 
 
ここまでの実験から、
 
右足の親指を除いては、僕にはちゃんと血が通い、痛覚が在るということ、
 
僕の右手の手刀は、ごく一般的な手刀と等しい威力しか有さないということ、
 
そして、
関連性の程は不明だが、右手の手刀で触れたことを少なくとも一つの契機として、僕の右足の親指は「取れた」のだということがわかった。
 
となると考えられるのは、
 
「そもそも僕の右足には親指がなく、物心のつかぬうちに何らかの医療技術により『擬親指』を後付けされたのが、時間の経過や肉体の成長により接着が弱まり、取れた」
 
という説である。
 
しかし、僕の右足の親指にはそのような手術痕や継ぎ目は無い。
何より、右足の親指の巻き爪による痛みがことの始まりであるのに、その親指が取れても全く痛くないという事実の説明がつかない。
 
 
足りない頭でここまで思考を巡らせて、ようやく僕は降参した。
要は非科学的な出来事なのである。
そう認めてしまえば、いろんなことがどうでもよくなっていくし、湘南も遠くなっていく。
「やれやれ」と親指が横たわるフローリングに寝転び、経緯はどうあれ結果として理想の形に落ち着いたことに気づく。
そもそも僕は、右足の親指を切り落とすことを望んでいたのだった。
それがある種、いちばん望ましい形(痛みを伴うことも、部屋を鮮血で汚すこともなく)で叶えられたのである。
 
 
解決不能な問題とカレーは寝かすに限る。いつの間にか、そのままフローリングで眠りに落ちていた。
 
 
「はた」と気づけば自分の部屋で、外はすっかり夜中であった。
馬鹿でかい月の光が、部屋の中まではみだし、青白く僕の右足を照らしている。
失ったはずの右足の親指は、「ぐずぐず」と膿んだまま元いた場所に収まっている。
 
どうやら夢を見ていたらしい。
 
また降りだしか、と、辟易するとも安堵するともつかない曖昧な心地のまま、なんとなく部屋を見渡した。
 
違和感はすぐにやってきた。
部屋の隅に置かれた本棚の隣で、何かが光っている。
買った覚えも置いた覚えもない姿見が、そこに無言で立ち尽くして、月明かりを跳ね返していた。
 
姿見の前に立ってみる。
月の光を背に受けて、鏡の中の自分の表情がよくわからない。
 
「ふ」と鏡の中の右手に目をやると、五本の指を「ぴん」と伸ばし、手刀を作っている。
当然、こちらの自分の右手も同じかたちをつくっている。
鏡の中の右手がゆっくりと持ち上げられる。
もちろん、こちらの右手も同じ速度で持ち上げられる。
鏡の後を追うような「ぬらり」とした動きで、右手は顔の横で止まった。
 
刃に見立てたその右手を、「そっ」と右耳に添える。
と同時に、「ぷつ」と何かが断たれる音が聞こえ、プールで水が入った時のように、鼓膜の奥がくぐもる感覚。
痛みも出血もなく、右耳は僕の体から分離し、フローリングに転がった。
 
次に、左の手首に手刀を添える。
もはやその動きに、僕の意思は介在していない。
かと言って抵抗することもできず、ただ鏡の動きに合わせるのみである。
手刀が手首に触れるや否や、熟れた林檎のように、左手はまっすぐフローリングに落ちていく。
このショッキングな自由落下では、ニュートン万有引力に気づけまい。
 
次はどこを切り落とす気か、とうんざりしながら鏡を見やると、左手首の断面から、銀色の液体が滴り落ちていた。
 
鏡の中の左腕は、その液体を床の上の右耳に垂らしている。
況や現実の左腕を哉、である。
 
すると、銀色の雫に濡れた右耳の孔から、「するする」と芽が出て、双葉が開いた。
開いた双葉はすぐに萎れ、茎が伸び、大きな葉が茂り、蕾が現れた。
 小さな蕾が幾つも現れ、寄り集まっているその様に見覚えがあった。
しかし、液体が足りないのか、蕾はなかなか開かない。
 
背後の月が雲に隠れた。
暗闇の中、右耳の周りに出来た水溜まりだけが弱々しく光っている。
 
僕は右手をまた持ち上げた。
自分の意思だとは言い切れないが、少なくとも、今は鏡に操られているわけではなさそうだった。
 
右手の手刀が首筋に触れた。
 
「ぐらり」と視界が傾き、左手よろしく自由落下する。
落ちていく、一瞬とも永遠ともつかない時間の中、立ち尽くす僕の首から、クジラが潮を噴くように、銀色の液体が湧き出し迸るのを見た。
 
「ごん」と頭に衝撃が伝わる。
どうやら僕の頭も床に到着したようだ。
横たわる視線の先で、銀色の飛沫を浴びた右耳の孔から、真っ赤な紫陽花が咲いていた。
 
 
目を開けると、紫陽花も右耳も消えていた。
どうやら夢を見ていたらしい。
体を起こして窓の外を見遣ればすっかり夜中で、馬鹿でかい月の光が部屋の中まではみ出し、青白く僕の右足を照らしている。
相変わらず親指の付け根より先は空席で、隣の人差し指はどこか頼りなさげである。
 
 
違和感は遅れてやってきた。
本棚の隣には何もない。
もちろん、右足の親指は床に転がっている。
 
 
その転がった親指の膿んだ傷跡から、小さな芽が出ている。
 
 
青白く照らされた部屋が俄かに暗くなる。
黒い雲が月を覆う。
湿った風がカーテンを揺らす。
 
右足の親指の前で僕は胡座をかき、右手で手刀をつくる。
窓には「ぼんやり」と影が映っているが、問題ない。
おそらくこれは僕の意思だ。
 
左腕を前に突き出す。
 
 
右手を軽く左手首に添える。
 
 
 
 

夏の子供たちはゆりかごを揺らす

五月からクールビズが始まった。
まだ早えよ、などと思いながらスーツにネクタイで仕事をしていたが、ここ最近背中や首回りがジットリ汗ばむようになった。

気づけばもう六月だ。

カレンダーの数字がひとつ増え、最近の湿気を孕んだぬるい空気が順当に梅雨の気配を知らせていることや、いつの間にかパンツ一丁にモールルのライブTだけで寝ていることに気づく。

暦が正確だと、なんとなく安心する。
予測不能なことばかり起こる世の中で、冬至から夏至にかけて少しずつ陽が長くなっていくことや、梅雨入り前にちゃんと紫陽花が咲き始めることは、僕たちを乗せた大きなゆりかごが規則正しく揺れていることを示している。
梅雨入り坊やが梅雨の到来を告げ、雨の日が続き、気持ちが沈んでも大丈夫。ゆりかごが揺れている限り、いつか梅雨は開けるのだ。


春夏秋冬どれが好き?という質問に、小学生の頃はうまく答えられなかったような気がする。夏の暑い日には冬を、冬の凍える日には夏を恋しく思った。
いつからか、暑さ寒さの不快のうちの前者を乗り越えたのか、夏大好き人間になっていた。
単純に、冬休みより夏休みのほうが長いから、という理由だったかもしれない。

とはいえ、夏は尊い季節だ。たとえ夏休みより冬休みのほうが長かったとしても、それは変わらないだろう。
そもそも住まいが日本一夏が熱くなる「聖地」なので、さしずめ僕は「夏の魔物」と言っても過言ではない。
みんな高校野球見に来てくれ。そのあと魔物ん家で冷たいおそうめん食おうぜ。

四年間通学し続けた京都もまた、我が町に負けず劣らずの夏が似合う街だ。
京都は春夏秋冬最強都市だが、こと夏に関してはより一層魅力が迸る。
祇園祭川床宇治川花火大会、五山送り火など、これでもかっつうぐらい風情の暴力が襲ってくる。
盆地特有の悪魔的な暑さでさえ、京都を生活圏の中心から外した身としては、愛おしいことこの上ない。


終わりが寂しく感じる季節というのも、よく考えれば夏だけのような気がしている。使い古された表現だが、「同じ夏は二度来ない」というのはひとつの真理である。
知らない間にいくつもの夏を終え、季節の移ろいに鈍い大人になっていた。
夏だろうがなんだろうが、5/7は社会人としての変わらない生活が続いている。

だからこそ、まるで夏休みが来るかのようにめちゃくちゃなスケジュールで遊びに誘ってくれる友達がいることは、本当に恵まれていると思う。

なんでこのクソ暑い中白浜温泉に行きたいんだ。
祇園祭の週は祭に集中しようぜ!」ってなんやねんマジで。


もちろん、どう頑張ってもこどもの頃の若さと情けなさだけで走り抜けられた夏に帰れるわけではないが、今もちゃんとゆりかごは、規則正しく揺れている。


梅雨が明ければ、また新しい夏が来る。


セクシーってなんですか?

ゴールデンウィークの最終日は、愛すべき先輩に会いに名古屋へ遊びに行き、あまりに美味しい手料理を振舞ってもらった後にだらだらと『人のセックスを笑うな』を観るという、およそ考えつく限り最高の日曜日の過ごし方を体現したのであった。


観たことがある人ならご理解いただけるだろうが、『人のセックスを笑うな』は前半60分のうちにピークのシーンがあって、残りの77分は上りも下りもしない、映像と同じ平坦な畦道が続いているような映画だ。
「平坦な畦道」をもっと平たく言えば「退屈」であり、好意的に言い換えれば「演出の妙」であるが、そもそも僕は映画よりも山崎ナオコーラ著の原作を読むことをおすすめしたい。

とはいえ僕はこの映画がだいすきだ。
所謂「濡れ場」に頼ることなく、セックスの幸福を「キス」と「事後」の描写で表現しきるこの作品には心憎さを感じずにはいられない。
エアマットに息を吹き込む永作博美に松ケンが言い放った「子どもか!」のツッコミ(まさにそのシーンこそ「ピーク」という其れである)は墓石に刻みたいほどの金言である。愛だ。愛でしかない。

だがなんと言っても特筆すべきは、劇中の永作博美のセクシーさだ。
あんなにあどけない顔立ちだというのに、醸し出す雰囲気やその表情はもちろん、タバコの吸い方からタイツの雑な脱ぎ方まで「セクシー」と言うほかない。


昔、とあるアイドルは我々に
「セクシー」なのと「キュート」なのと、どちらが好きなのか、と迫ったものである。

「セクシー」と「キュート」とがそれぞれ相対するものと位置づけられるのかは定かでないが、褒め言葉として存在するこの二者がそれぞれに異なる(多くは女性の)魅力を表していることは明らかである。

言葉どおりに意味を解釈すれば、前者は「色気」で後者は「愛嬌」だ。
そういう意味では両者は決して相反するものではないし、いずれも非常に好ましい魅力であり、どちらかひとつを選ぶにはとても悩ましい。

色気と愛嬌、そもそも天秤にかけられるのか。


こと女性の魅力という観点に限って言えば、「セクシー」と「キュート」の最大の違いは、セクシーが「セックス」からの派生語であることからも明らかなように、性的に由来する魅力であるということだろう。

セックスの生物的な極限の意義を考えれば「子孫を残す」ことであり、生物的に異性を魅了する特徴(=セクシーさ)が成長とともに発現してくる。そして「子孫を残す」のに適した期間が終わればその性質は次第に失われていく。

乱暴に言ってしまえば、赤ちゃんからおばあちゃんまで備わり得る「キュートさ」とは異なり、「セクシーさ」は生物として子孫を残すのに適したある期間に特化して備わるものなのだろう。
(無論、この荒削りも甚だしい主張、当てはまらない反例はガンジス川の砂より多く、反論の余地はカスピ海より広大である)


アルバート=アインシュタインに並ぶ20世紀最大の物理学者スティーブン=ホーキング博士は、宇宙最大のミステリーはなにかというインタビューに「女性だ」と答えた。

山崎ナオコーラという名前も、人のセックスを笑うなというタイトルも、そしてそのストーリーも、あまりにセクシーであまりにキュートだ。男には決してたどり着けない世界のもののようにさえ思えて仕方がない。マジでどうやったらこんなん生み出せるんや。
大ホーキングにさえわからないのだから、考えても仕方がない。トホホ。


余談になりますが、女の子が身につけるものの名前ってなんであんなセクシーなんですか?

ブラジャーってなんですか?

ネグリジェってなんですか??



現世でランチ

今日も今日とてダラっとした日常にぶら下がっている。
エンターテインメント性に充ち満ちた休日に比べて、なんなんだこのスリープモードのような平日は。無論、365日を楽しく過ごしたいだなんて極論を言うつもりはない。たまに「いつだって今が最高!今この瞬間を楽しまなきゃ!!」みたいな輩もいるが、そいつは十中八九そういうクスリをやっているから気をつけろ。にしても、人生の5/7が平日だなんて、いささか慎ましく生きすぎなのではないだろうか、シャカイジン。

そこで主は「飯あれ」と仰せになった。
シャカイジンは平日にも1日3回飯を食い、専らそのうちの昼飯を食らうその瞬間に限り、わずかながらエンターテインメント性を感じることを赦された。

旧約聖書にも上記のような記述があるように、シャカイジンにとってのランチタイムは、ワークタイムという名の砂漠にぽっかり現れたある種のオアシスでもある。ある部長は会社からたっぷり15分歩いたところにあるお気に入りの定食屋まで足繁く通い、近所の有名なラーメン店では毎日お昼時になると、ワイシャツ姿のおっさんたちが列をなす。NHKで「サラメシ」という労働者の昼食をキャプチャーしたドキュメンタリー番組まで製作されるぐらいなのだから、昼食という名のエンターテインメントをひとつの拠り所としているシャカイジンが如何に多いかということが窺い知れる。

シャカイジンの昼飯は多種多様だ。
大衆食堂の日替わり定食を毎日の楽しみにしているシャカイジンもいれば、今月新しいゴルフクラブを買ってしまい、あまり余裕がないので社員食堂やコンビニで済ませる、というシャカイジンもいる。内勤のシャカイジンは何の気兼ねもなくラーメンにニンニクを摩り下ろすし、グルメなシャカイジンは最近ランチメニューを始めたという寿司屋の行列に加わる。新婚ホヤホヤのシャカイジンはいそいそと愛妻弁当の包みをほどき、喫茶店の看板娘に恋したシャカイジンは今日もまた声をかけられずにナポリタンをちゅるちゅる啜る。無個性だの画一的だのと揶揄されることの多いニッポンのシャカイジンであるが、昼飯にはシャカイジンの数だけドラマが宿っているではないか。

「フォークは悪魔がつかうもの」とは、川上未映子の言らしい。さしずめスプーンは天使の道具なのだろう。
悪魔にも天使にも頼ることなく、二年目のシャカイジンはマクドナルドのハンバーガーを素手でむしゃむしゃ食べる。包み紙と一緒に生ぬるい平日を丸めてゴミ箱にシュートする。そんな微々たるエンターテインメントが、確かにシャカイジンを救っている。

好き嫌いの話(後編)

好きな人やものがたくさんあるように、嫌いな人やものもたくさんある。

世界の半分は無関心でできているとして、もう半分の関心ある諸々はすべて好きと嫌いで二分される。
うら若い女性のスラっと伸びた指が映える右手は好ましいがガタガタの爪先がのぞく爪噛み癖の上司の左手は嫌いだし、だだっ広い海岸線を臨む防波堤に腰掛けて屁を放る爽快感には得も言われぬものがあるが、野球中継を見ながらビールをちびちびやりつつ破裂音とも不発音ともとれぬ曖昧な「バスッ」を発する親父の放屁ほど勘にさわるものはない。

世の中のあらゆる提言が半分アタリで半分ハズレであるように、「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉も例に漏れず半分アタリで半分ハズレだ。
「嫌よ」と言っている以上、嫌なものはイヤなのは周知の事実である。実際問題、「嫌よ」の嫌は「嫌い」の嫌であり、2000種類超ある常用漢字の中でも「嫌」という字に込められた意味のあまりのネガティブさには、一種の同情さえ禁じ得ない。
とはいえ、先ほどの他人の手や放屁の例で示したように、好きと嫌いは紙一重であることもまた真理だ。少年は好意を寄せる少女に嫌がらせをしてしまうものだし、いがみ合っている少年に少女が密かに恋心を持ってしまうというのはマーガレットの王道パターンである。

よくよく考えてみれば、人が人に対して好意や嫌悪感を抱くことは非常に複雑なことである。
例えば食べ物の好き嫌いはその「味」に理由があり、本や映画の好き嫌いはその「おもしろさ」に理由がある。言わばそれぞれに万人に通ずる好き嫌いの「絶対的な」評価基準が備わっているのであり、カレーが好きな理由に「味」以外の「色」や「温度」が挙げられることは基本的にはない。
対して「人」については好き嫌いの評価基準に万人共通の絶対的なものが無く、「容姿の美醜」を評価基準にする者もいれば「性格」を評価基準にする者もいる。もっと言えば実感として、人に対する好き嫌いにそのようなひとつの評価基準を持っているというのは少数派であり、多くは様々な要素を総合的に評価基準として設けているように思われる。
そのうえさらに「友達として」や「恋人として」のように、好意は対人関係別に分類される。こうなるといよいよ収拾はつかない。お手上げである。

こんなことを考えてるのは僕がまだ若いからなのだろうか。こんな毒にも薬にもならない(精神がなんとなくどんよりしてくるということを加味すれば毒にはなり得る)話をある友人としていたら、彼女はいっそクジャクになりたいと言った。クジャクのように、飾り羽の美しさだけで相手を好きになれたらこんな悶々とした想いをすることもないのに。

なるほどなと僕は思ったのだが、クジャクが飾り羽の美しさだけでパートナーを決めるなんて誰が言ったのだろう。その提言もまた、半分アタリで半分ハズレに決まっている。

好き嫌いの話(前編)

極々個人的な話をすると、珈琲がとても好きだ。

と言っても味の美味い不味いの評価基準は自分のなんとなくの好みや気分でしかないし、専門的知識が豊富なわけでもない、そもそも生得的(本質的には生失的)に匂いがほとんどわからないので、まったく「ちょっとした趣味」の範疇での話である。
とはいえ喫茶店はよく行くほうだし、長らく足繁く通う店もいくつかある。自分でもペーパードリップで淹れるし、豆や道具もそこそこ選んでいる程度には凝っている。月並みではあるが、いつか自分の喫茶店を開いてみたい、という少年おっさんのような夢もある。

珈琲の魅力を語るために、「珈琲の愉しみ方」の話をすれば、読みかけの本を読むだのタバコをふかしてみるだのテイクアウトしてなんとなく景色がいい場所まで自転車を漕いでみるだの、それこそ気分によりけりで、これはこれで広げてみてもおもしろいのだが、どうにも風呂敷を畳める気がしない。
「美味しい珈琲の条件」、これもまた同様だ。第一、そんな「条件」などといったある種の規定を語れるほどのご身分ではないし、生憎そんなゴッドタンも持ち合わせていない。
「珈琲に合う音楽」、これは少し良いかもしれない。しかしネックとなるのは好みのジャンルの違いだ。ドヤ顔で珈琲に合う曲を書き連ねても、そんなアーティスト知らないよ、と言われてしまえば途端にテーマが瓦解してしまいかねない、危うい話題だ。

そこで僕は考えたのである。音楽に知識差のネックがあるのなら、万人に知識差のない珈琲に合うなにかを、珈琲の魅力の語り口とすればよいのではないか。
そして思い至ったのが「珈琲に合う動物」である。

喫茶店やカフェの類の店にはなぜか、動物の名前が付いているものが多い、というのが僕の持論である。有名どころでは代々木公園のFUGLEN(ノルウェー語で「鳥」の意)や渋谷の名曲喫茶ライオン、大阪は阿部野橋の喫茶スワンなどが挙げられる。学生時代を過ごした京都にも、つばめだの魚だのキリンだの象だの、さまざまな動物の名を冠した喫茶店・カフェが数多く存在する。ヤギが赤い実(=コーヒーの実)を食べてラリってるのを修行僧が発見したというなかなかファニーな話が珈琲の起源の一説となっていることや、また最高級豆コピ・ルアクがジャコウネコのウンコから摘出されることなどから、珈琲と動物は案外イメージとしてリンクするものがあったりなかったりするのではないか、とも思っている。
ということで、以下に極々個人的な印象で珈琲に合う動物を列挙する。これで珈琲の魅力が伝わったとすれば、皆さんの想像力の豊かさに感謝である。

◎クマ
クマといってもなんでも良いわけではない。ベストはシロクマである。北極の寒さを連想させるので、ホットコーヒーととてもよく合う。ツキノワグマや、マレーグマなんかも、毛並み的に良い。パンダやグリズリーはちょっと違うのである。

◎カモメ
鳥類ではかなり珈琲に合う方だと言える。港を連想させるので、遥か異国の飲み物というイメージに結びつきやすいのかもしれない。つばめや白鳥も渡り鳥で、遠い海を越えてくる感じが珈琲に合う。原産国イメージで言えばオオハシやフラミンゴなんかもいい線いっていると言えよう。シロクマと同様の理由で、ペンギンもしっくりくる。

◎黒猫
とても良い。珈琲とよく合っている。なんなら喫茶店に居て欲しい。珈琲にここまで合うってのは、犬にはない魅力のひとつかもしれない。クロに限らずミケとか灰色の猫もいい。シャムキャッツとかは違う。百獣の王ライオンは老舗の喫茶店の風格を思わせるという意味ではドンピシャだが、その他の大型ネコ科はあんまり向いてないかもしれない。それこそジャコウネコは珈琲に合う動物筆頭株主スフィンクスという品種の猫もちょっとアリ。

◎オオカミ
イヌ科の劣勢のなか、孤軍奮闘するのがオオカミである。シンプルにそのクールな出で立ちは珈琲のイメージとマッチしているが、それ以上に「一匹狼」の言葉のとおり、群れることなく我が道をゆくその様はまさにコーヒーを嗜むオトナの男のよう。その姿に憧れて、背伸びしてただただ苦いのを我慢しながらブラックコーヒーを飲んだ中学生のあの頃を彷彿とさせる。

ツノのある鈍い大きい動物すばらしい。珈琲の癒しの香りとエッジの効いたほろ苦さのイメージとマッチしている。ヌーやバイソンも、鈍足ではないがストロングスタイルの珈琲のようで、かなり似合う。水牛なんかはとてもベトナムコーヒーの香りがする。また、トナカイなんかはコーヒー大国であるノルウェーフィンランドスウェーデンの北欧三国を想起させる、めちゃくちゃ珈琲に合う動物の1匹である。

◎バク
珈琲に合う動物第3位。「優しい目をしたのっそり動く動物」という、バファリン以上にやさしさだけで出来てるような生き物。カフェインによる眠気覚ましの作用と、夢を喰うというバクにまつわる伝承とのコントラストが絶妙である。同じようなフォルムという枠で、サイとカバも珈琲に合う動物に挙げたい。

◎ゾウ
珈琲に合う動物第2位。陸上生物で最高に珈琲に合う動物である。膝がガサガサな感じとか、けっこう賢くて芸もできるとことかとても良い。ツノではなく牙があるところもまたよい。京都の路地裏の名店、elephant factory coffeeは秀逸な命名である。余談だが、ゾウはジャンプすることができないらしい。この雑学とも豆知識とも付かないゆるさが非常に愛おしい。

◎クジラ
珈琲に合う動物堂々の第1位。クジラが好きだから1位なのではない。珈琲にここまで合うから好きなのだ。海中哺乳類的なのっぺりしたフォルムは、焙煎したての艶やかなコーヒー豆を想起させ、その生態や個体同士のコミュニケーションなどの生物学的な謎の多さは珈琲という飲み物の奥深さを思わせる。ドリップの際にモコモコと湧き上がる泡だって、クジラの潮吹きに見えないこともない。海洋哺乳類という点で言えばマナフィとかも良さげ。あとは語感でスナメリも推したい。「スナメリコーヒー」って喫茶店ありそう。


以上、極々私的な「珈琲に合う動物」でした。ちなみにヒトは全然、珈琲似合わねぇな。

春眠、見た夢を覚えず

人工的な暦で三月を迎えて二週間、ようやく季節の移ろいを感覚として感じられるようになってきた。
カレンダーをめくって現れた数字を見て「もう春か」と思っていたのもつかの間、いつの間にか寝起きのフローリングの冷たさが和らぎ、マスクの意義がインフルエンザ予防から花粉対策へと変わり、午後の陽射しに欠伸が止まらなくなり、気づけばすっかり春の只中に居ることを知る。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、この甘ったるい眠気は社会生活を営むうえで非常に迷惑ではあるが、また幸福でもあるのはおそらく天国に一番近い季節だからなのだろう。ヨーロッパの聖堂などによくある絵画に描かれる天界の様は、花が咲き乱れ鳥が唄う、春そのものの景色である。

同時に春の色香は蠱惑的である。ある種の悦びを湛えたこの開放的な陽気は、動物たちを冬眠から目覚めさせ、生命活動を活性化させる。人間も等しく活性化させられ、蕾が綻びて中から花弁が零れるように、各々の内内に秘めた欲求の箍をはらりと解き、春を「恋の季節」たらしめる。根源的な部分で言えば、偏に川辺で盛る鴨の番と何ら変わらない。
「恋の季節」に収まっているうちはまだ良いが、悪魔的とも言える春のテンプテーションは人々を惑わせ、街に変質者をぬらりと産み落とす。よもやバーバリーも自社のスプリングコートがこんなにも裸を覆い隠して出歩くのに適しているとは思いもよらなかったことだろう。

春の気色は様々な感度を昂らせるのだろう、出逢いや別れの期待、不安、感傷もすべて、不思議と他の季節以上に押し寄せてくる。
たぶん、僕たちはみんな春という夢を見ている。脳を発達させ、独自の進化を遂げてきた人間は、冬眠するかわりに春眠するのだ。浮ついた気持ちも、どこか心許ない足元も、すべて春の夜の夢の中だからだ。いつまでも夢の中に居たいのだが、やがて暖かさは寝苦しい暑さにかわり、春眠に堕ちた時と同じように、知らぬ間に春眠から覚めるのだ。そこには世界を濡らし、焼き尽くす夏がある。

電車に乗っている。となりの席ではサラリーマンがiPodを聴きながら鼻唄を歌っている。上手なのだが、その歌を僕は知らない。通過した駅のホームに佇む、矢羽根文様の着物を着た女子大生を見た。卒業式終わりで、これから追い出しコンパなのだろうか。彼女もきっと、帰りの電車で泣くのだろうか。